秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「眠りについた人たちの初穂」 コリントの信徒への手紙一15章20~28節 

2022-04-17

 「死」は必ず訪れます。 死んだらいったいどこにいくのか誰も分からいない。 答えられない「死」、到底受け入れることも理解することもできない「死」を、聖書は「復活」という出来事によって語ります。 「キリストの十字架と復活」は聖書の根幹です。 私たちが受け入れやすく、説明しやすく語ろうとするなら、神のみ心から離れてしまうでしょう。 パウロは、「キリストの十字架の福音を告げ知らされているにも関わらず、神のみ心を曲げて自分たちが受け入れやすく受け取っている」コリントの教会の人たちの姿に、「死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか」と心配するのです。 イエスは明確に、「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、わたしを見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:38-40)と語っています。 パウロは、十二弟子のように直接イエスの復活の体を確かめたわけではないでしょう。 イエスの弟子たちを迫害するその途上で、復活されたイエスに呼びかけられたのです。 このお方に結ばれて新しく生かされ変えられていった実体験、復活の命に与かっている今現在の事実を、パウロは「復活されたイエスがわたしにも現れました。」と語るのです。 今まで何も見えていなかった古い自分が死んで、イエスから賜る新しい命に生かされているという喜びです。 もうすでに、聖書が語っている「来るべき世」の命に生かされている確信です。 「終わりの日」に「復活」という形で永遠の命が与えられると信じていたユダヤ人たちとは異なり、キリストの十字架の死と復活という歴史的事実によって、「終わりの日」に味わう神の国はもうすでに私たちのもとに訪れた。 この世に生きている間に現実体験が深くなり、将来の「復活」に与かる希望が益々確かなものとなったとパウロは語るのです。 この自身の信仰体験より、「聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のためにキリストが死んだ、三日目に復活し現れた、死者の中から復活し眠りについた人たちの初穂となられた」と短く二つの信仰を語るのです。 私たちの過ちの償いのため、私たちの罪の赦しと解放を語る「贖罪の信仰」です。 もうひとつは、私たちが死んで新しい命に生きるためにキリストが復活されたという「復活の信仰」です。 キリストが人間として死者の中から復活し、新しい時代の幕開けとなった。 神のもとを離れてしまった私たちが新しく生かされる道が開かれた。 キリストが神の子であるから復活したという、キリストだけに起こされた特別な出来事ではない。 キリストの「復活」こそが、今眠っているすべての人たちに起こる出来事となる。 そのことを「初穂となられました」と表現するのです。 キリストは後に続く私たちを予め代表する者となり、保証する者となった。 キリストの「復活」は、「終わりの日」の地上への到来であるとパウロは言うのです。 同時に、パウロはそれには順序があり、最初にキリスト、次にキリストに属する人たち、次に「世の終わり」がきて、すべてのものが神に引き渡され、すべての権威や勢力が支配されるようになり、最後の敵、「死」が支配される。 それは、「神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」 それが「救い」の最終目的である。 キリストが「復活」していなければ、私たちの「復活」はない。 肉体の死を越えたところに、神の救いの最終目的がある。 それがすでに定められていると言うのです。

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「つまずきと愚かさを信じる」 ルカによる福音書23章32~43節 

2022-04-10

 イエスの十字架のもとには、様々な人々の姿が映し出されています。 祭司長、律法学者、長老というユダヤの指導者たちこそ、イエスを十字架につけた張本人です。 自分たちが築き上げてきたものすべてを壊しかねないイエスを抹殺するために、ローマ帝国の権威と権力を利用して用いた道具が「十字架」という刑罰でした。 彼らは、「自分を救うことのできない者が、どうして救い主と言えるか」とあざ笑ったのです。 「死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」と判断しているのに、真実を曲げて自分の身を守るためだけにイエスを十字架刑に引き渡したローマ総督ピラト、ユダヤの領主ヘロデの姿が今朝の場面には隠れています。 この処刑の有様を「立って見つめていた」民衆の姿もあります。 イエスが自分たちが望む救い主であると期待し大歓迎した人々が、わずか一週間で「十字架につけよ」と叫んでいるのです。 直接イエスを十字架につけ、殺し、その死を確認する務めをもつローマ兵士たちの姿もあります。 彼らもまた、「お前がユダヤの王であるなら、自分を救ってみろ」と侮辱するのです。 そのようなイエスの姿をどうしようもなく諦めて、嘆き悲しんでいた婦人たちの姿も記されています。 「十字架刑」とは、人間の尊厳を徹底的におとしめる残酷な刑です。
 「イエスの十字架」の他に「二人の犯罪人」の十字架、合わせて三本の十字架が処刑場に立ったと言います。 イエスは、「預言されていることはわたしの身に必ず実現する」と公言し、自ら進んで「十字架」を目指してこられたのです。 直前のオリーブ山で、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 けれども、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と、汗が血の滴るように地面に落ちるほどに祈ったと言います。 「二人の犯罪人」と同じように、もはややり直しがきかない、裁きの前に死を受け入れ、地上の命の終わりを遂げようとされているのです。 そのイエスがそのような極限の場所で、「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と、父なる神に過ちの赦しを祈る、とりなしの祈りをささげているのです。 自分の苦しみのためではなく、直接十字架につけたローマ兵だけでもなく、隣で十字架に架けられている「二人の犯罪人」も含めて過ちを繰り返すすべての人びとのためにイエスは祈っているのです。 このイエスのとりなしの祈りをすぐそばで聞いた「ひとりの犯罪人」が、この場に及んでもイエスを罵る「もうひとりの犯罪人」に言います。 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。 しかし、この方は何も悪いことはしていない。」 なぜ、この犯罪人は、自分の過ちを心に刻むことができたのでしょうか。 ほどなく地上の命に終わりを告げようとする十字架の場で、「何をしているのか分からない」すべての人のために、地上の裁きでなく真の裁きを司るお方に、本当の裁きが及ばないようにと祈っているイエスの祈りを耳にしたのです。 真の裁きを執り行う存在を初めてそこで知った。 そのお方がおられるところに戻って行こうとされているイエスの確信の姿に出会ったのです。 この祈りこそ、自分のためにささげられていたことを知って驚いたのではないでしょうか。 その時の彼の語った言葉が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」という精いっぱいの言葉でした。 それにイエスは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われたのです。 地上の命を越えた「今日」、神が支配されている場で十字架のイエスと共にあると約束されたのです。 私たちの目には「つまずき、愚かさ」であるイエスの姿が、十字架の福音を信じる者には「神の力、神の知恵」となるのです。 これが地上の命の最後の場面で救われる者に与えられた祝福です。

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「無きに等しい者」 コリントの信徒への手紙1章26~31節 

2022-04-03

 コリントの教会の内部では、いくつかの群れに分かれるという騒動が起こっていました。 人間の社会では、主導権争いはよくあることです。 パウロはコリントの教会の状態を知って、「いったい、だれがわたしたちを救うために十字架につけられたのですか。 だれの名前によって、あなたがたはバプテスマを受けたのですか。」とはっきりと主張します。 教会はイエス・キリストのひとつのからだである。 自分たちのために十字架に架かって死んでくださったお方を語るべきである。 言葉の知恵によらないで、聖霊の力によって十字架の出来事を通して語る神の言葉を告げ知らせるために遣わされたのだと主張するのです。 このコリントの教会の群れの分派争いの原因を、パウロは「言葉の知恵、人間の誇り、この世の知恵」に置いています。  十字架に架けられたイエスの姿は、「人の知恵、この世の知恵」からすれば、愚かで、弱々しい、余りにも低く見えてしまう、理解不能の姿にしか映らないでしょう。 しかし、パウロは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」と言うのです。 「召される」という言葉は、「呼ばれる、引き寄せられる、集められる、遣わされる、再び神のもとへ戻って行く」という意味合いに用いられています。 「召される」のは神です。 神に造られた私たちは、この神の呼びかけに応えなければなりません。 「神に呼ばれたのはだれであったのですか。 人間的に見て知恵のある者、能力のある者、地位のある者、家柄のよい者が多かったわけではありません。 むしろ、無学な者、無力な者、世の無に等しい者、身分の低い者、見下げられている者であったではありませんか。 それには理由がある。 誰一人として、人間が神の前で誇ることがないようにするためです。 ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、神に召された者には、神の力、神の知恵である十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えるためです。」とパウロは言うのです。 この「無きに等しい者」でなければ、「十字架の出来事に示されている神の言葉」を宣べ伝えることはできない。 自分の誉れ、自分の誇りにまみれた者であるなら、この世の知恵では悟ることのできないイエス・キリストの十字架と復活に示されている「神の力、神の知恵」を宣べ伝えることはできない。 正に、イエス・キリストの生き様に凝縮されているように、この世の知恵で「愚かな者として、無力な者として、取るに足りない者」として、父なる神に従わなければ「神の力、神の知恵」に生きていくことができない。 そのために、神は私たちを選んで、呼びかけて、召してくださっているのです。 神に召された者とは、神に選ばれた結果としか言いようがありません。 私たちの立派さ、努力、信仰、熱意とか、私たちの側に何らの根拠があるものではありません。 人間の側の一切の「誇り」を否定するものです。 「誇る者は、主イエス・キリストだけを誇れ」と、パウロは(エレミヤ9:23)を引用して語ります。 「神の力、神の知恵であるキリスト・イエスに結ばれる。 このキリストが私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた。 私たちはそれを受け取るだけである。」と言うのです。 「神の知恵」とは、人間に隠されている神のみ心です。 「義と聖」とは、神によしと肯定されるということでしょう。 パウロは、「神は罪と何のかかわりもない方を、わたしたちのために罪となさいました。 わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです。」と言います。 「贖い」とは、「奴隷を自由の身にするために代償を払う」ということです。 この身代金こそ、十字架のうえで引き裂かれたイエスのからだ、流されたイエスの血です。 神ご自身が最も愚かな姿、低くされた姿、弱くされた姿をとって現れてくださったのです。

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「天に記されているわたしの名」 ルカによる福音書10章17~20節 

2022-03-27

 イエスが12人の使徒たちを遣わされた出来事は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書に記されていますが、72人の弟子たちを遣わされた出来事が記されているのはこのルカによる福音書だけです。 12という数字は、イスラエルの部族の数でしょう。 72という数字は、世界を表していると言われています。 ルカは12人を遣わす時に「『イエス』は十二人を呼び集め、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わされた」と言いますが、72人を遣わす時には、「『主』はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」とあります。 『復活されたイエス』が72人を全世界に向けて遣わしたのだとルカは語るのです。 この時イエスは、「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」と言われるぐらい、周囲には激しい抵抗や迫害があったのです。 イエスはそのことを承知のうえで、「悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」を弟子たちに授けたと言います。 「悪霊」とは、神のもとから人々を引き離そうとするすべての力です。 『復活されたイエス』は、この霊との戦いにすでに打ち勝っている。 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者である。 あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。 わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」と言われているのです。 ところが、イエスの心配をよそに、72人の弟子たちは喜んでイエスのもとに戻って来た。 「主よ、あなたのお名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と、意気揚々と喜んでいるのです。 イエスは、弟子たちがおこなったことを喜んでおられるのではありません。 イエスご自身の権威と権能を弟子たちに授け、遣わすことによってご自身が働いておられるのです。 弟子たちを通してご自身の名によって神ご自身がなされたこと、神ご自身のみ心が愛する弟子たちによって果たされたことを喜んでおられるのです。 イエスは、「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われます。 旧約聖書の中にも、神ご自身が書き記している「命の書」がある。 それに、あなたがたは登録されている、書き記されていると言うのです。 「あなたがたは、わたしによって遣わされて、わたしの権威と権能を授かった。 それが、もうすでに神の名簿に登録されたことである。 ゆえに、一つ一つの祝福の結果、見える恵みの出来事を喜ぶのではなく、もうすでに神の民とされている事実、そのような神の恵みの場に置かれていることに、あなたがたはむしろ喜びなさい。」と言われるのです。 「わたしたちの名前」とは、自分が自分であることを赦されていることです。 神ご自身が、ひとりの人格としてこの地上の命を与え、又とない唯一の存在として明示されている事実です。 何かいいことをしたら、神に認められたら「天に書き記される」と言っているのでしょうか。 神の御前においては、良いところも悪いところも、貧しさも豊かさも、プラスもマイナスも丸裸です。 隠しようがありません。 すべてが刻み込まれた「わたしたちの名前」です。 ペトロも、ユダも、トマスも皆同じ揺れ動く存在で、神のみ前では大差ありません。 神は何らの条件も付けず、そのままで受け入れ、赦してくださっているのです。 私たちはそのありのままの姿を差し出して、神の恵みによりまったく条件が付けられていないそのところで生かされていること、これが信仰者の歩みなのではないでしょうか。 神の国と同じように、そのままの名前を名乗り合うことができる世界が、この地上に訪れたとイエスは語るのです。 

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「現れ、名乗り、決心される神」 出エジプト記3章13~20節

2022-03-20

 ミディアンという地で羊飼いをしていたモーセは、神の山に差しかかった時、不思議な光景を見たと言います。 柴が火に燃えているのに燃え尽きない、その光景をモーセは見極めようと近づいて行った。 その姿を「ご覧になっていた」神は、その柴の間から「モーセよと、その名を呼ばれた」と言います。 モーセはこれに「はい」と答え、神は「ここに近づいてはならない。 あなたの立っている場所は聖なる土地だから。 わたしは、あなたの父の神である。 アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」とご自身を名乗られたのです。 これが、神とモーセとの出会いでした。 神はモーセに、「エジプトにいるわたしの民の苦しみを見、叫び声を聞いた。 彼らの痛みも知り、エジプト人に圧迫される有様も見た。 それゆえ、わたしは下って行き、エジプトの手から彼らを救い出し導き出す。 そして、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き昇る。」と言われたのでした。 モーセの生い立ちは複雑で、もともとエジプトに住むイスラエルの家庭に生まれた者でした。 エジプトにイスラエルの民の数が急激に増加したことに恐れを為したエジプトの王が危機感を憶え、イスラエルの男の子が生まれたら殺すようにと命じるまでになったと言います。 モーセの両親は、生まれたてのモーセをパピルスで編んだ籠に入れてナイル川に流した。 それをエジプトの王女が拾い、エジプトの王の一族として育てたのです。 成長したモーセは自分のルーツを知り、自分の同胞であるイスラエル人を虐待するエジプト人を殺してしまう事件を起こし、エジプトから追われたのです。 このような複雑な生い立ちをもつモーセに、神はご自身のみ心を託すのです。 「わが民イスラエルの人々のところに、また、エジプトの王のところに行きなさい。」と神に言われたモーセはしり込みをします。 不自由のない安定した生活を家族と共に送っているのです。 決して若くはない年齢です。 自分の生い立ちからは、イスラエルの人々にとっても、エジプトの王にとっても「よそ者」です。 相手にされないと思うのが普通です。 「わたしは何者なのでしょう」と神に問い返すのは当然です。 これに神は、「わたしは必ずあなたと共にいる。 このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。 行って、『あなたたちの先祖の神が、イスラエルの民の神がわたしを遣わした。』と言え」と言われるのです。 この神の呼びかけに、モーセが「参ります」と答え、「遣わした神の名は一体、何か」と問われたら「わたしはなんと答えるべきでしょうか」と尋ねた時に初めて、「わたしはある。 わたしはあるという者だ。」とご自身を明かしてくださったのです。 「わたしはわたしがあろうとする者である。 わたしはわたしがなろうとする者になる。」と言われているのです。 「モーセよ、イスラエルの民よ、わたしはあなたがたのために、あなたがたの神となろうとする者である。 心配することはない。 わたしはいつも、どこでも、あなたがたと共にいる。」と響いてきます。 神は、私たちの苦しみをご覧になって、叫び声を聞いたのです。 それゆえ、モーセに現れ、呼びかけ、名を呼んで、段取りまで教え、こうなるであろうと約束までも与え、自らの決心を告げられたのです。 モーセと神との出会いは、神のもとに進み出ることから始まっています。 それをご覧になった神が決心し、呼びかけられたのです。 モーセの応答と訴えを聴いて、自ら名乗られ、これから行われようとされているみ心を語られたのです。 応答しなければ、神のみ心を知ることはできません。 神との交わりがなければ分からないのです。 そこに、神の祝福が果たされていく。 その間、神はいつも共にいる。 神が名を呼び、ご自身の名を呼ぶことを赦し、交わりが起こされるのです。 「礼拝」こそ、神との交わりの原点、神の祝福の源です。

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「杖一本をもって」 マルコによる福音書6章7~13節

2022-03-13

 イエスがその故郷ナザレで、「この人は大工ではないか。 マリアの息子ではないか。」と、人々に拒まれ、イエスの宣教の旅が始まったのです。 およそ三年あまりその先頭に立って進んで行かれたイエスと、そのイエスのそばを離れずついて行った弟子たちの旅の姿を憶えます。 神が約束された地を目指し、40年もの間荒れ野をさまよったモーセとイスラエルの旅の姿に重なります。 荒れ野では、雲が幕屋を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまるとそこに宿営したと言います。 神の命令に従って、イスラエルの人々は旅立ち、宿営したのです。 私たちの思い願う「人の時」と、神のみ心が果たされていく「神の時」とは、どうしても食い違うのです。 神さまの働きは、私たちの思い通りには収まり切らないのです。 イエスは、「12人の使徒たちを呼び寄せる」ために、夜を徹して祈っています。 その背景には、神の民として選ばれていたイスラエルの人々の「飼い主のいない羊のような有様」を深く憐れまれたからです。 イエスはこのようなイスラエルを神のもとに取り戻すために、「12人を呼び寄せ、イスラエルのもとに遣わすこと」を決断されたのです。 12とは、失われたイスラエルの部族の数です。 呼び寄せられた12人の使徒たちとは、新しいイスラエルです。 なぜ、何の準備もされていないこれらの弟子たちを選んで、派遣して神の国の福音を宣べ伝えるという方法でイスラエルを取り戻そうとされたのでしょうか。 イエスご自身の十字架の時が今まさに迫ってきて、神が働かれる「神の時」が迫ってきていたのです。 使徒たちは遣わされることによって、神のみ心を知ることになる。 どこに向かって進んでいるのか知ることになる。 働いているのは自分たちではなく、イエスご自身が働いてくださっていることを知ることになる。 何よりも自分自身を知る、託された務めを知ることになる。 そう願って12人の使徒たちを選んで遣わされたのではないでしょうか。 「二人ずつ組みにして」と、イエスに結ばれての交わりを宣教の土台としたのでしょう。 巧妙に人を神から引き離そうとするあらゆる力に対抗しうる神の力として、「汚れた霊に対する権能を授けられた」と言います。 神なしに生きている人々を神のもとに取り戻そうとして、「悔い改めをさせるために宣教した」のです。 「パンも、袋も、金も、2枚以上の下着を持って行ってはならない。」と言います。 自分が持っているものを与え、一時的に慰め力づけることができたとしても限界があるでしょう。 しかし、自分の「貧しさ」を知るなら、自分が持ち合わせていない神のもとから注がれる「豊かさ」を人に伝えることができるようになるのではないでしょうか。 むしろ、ここで言う「持って行きなさい。 着けて行きなさい。」という「杖一本、履物、下着一枚」に注目したい。 モーセは、「40年間荒れ野で人々を導いたが、まとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった」と振り返っています。 神から託された務めを果たす為の旅には、必要なものはすべて与えられる。 「杖」そのものに力があるわけではないが、それが神の業に用いられるなら力を発揮する。 その「杖一本」を持って行きなさいと言われているのです。 そして、「受け入れる者」の所に留まり、「受け入れない者」の所では立ち去りなさいと言われるのです。 残念ながら、イスラエルの人々はイエスを扱ったように使徒たちを拒んだのです。 イエスは、使徒たちを受け入れないことは、彼らを遣わしたこのわたしを受け入れないことであると言います。 「一本の杖」という新しくされた自分自身をささげて、最後まで「世の光、地の塩」としてイエスと共に歩み通すのです。 「あなたがたは祝福の源となる」という神の約束が、与えられたその所で果たされるのです。

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「キリストに結ばれる喜び」 ローマの信徒への手紙6章1~11節 

2022-03-06

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と語られたイエスご自身と私たちとのつながり方を、パウロは「バプテスマ」を通して語ります。 パウロは、「バプテスマ」を「接ぎ木」に譬えています。 野生のオリーブである私たちが切り取られて、キリストという根株に「接ぎ木」される。 キリストという根から豊かに養分を受けるようになる。 不信仰という罪の根が切り倒され、新しいキリストという根に支えられ、新しい命を注がれて生きるようになる。 そこには、切り倒される「神の厳しさ」がある。 その一方で、再び新しい芽生えと新しい命が注がれる「神の慈しみ」があると言うのです。 「接ぎ木」とは、台木の上に種の異なる挿し木を継ぎ合わせて成長を促すものです。 接ぎ木された木は、しっかりと台木に結び合わされて命の養いを受け取っていく。 旧約聖書にも、メシア預言にそのことが表されています。 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊が留まる。」(イザヤ11:1-2)とあります。 エッサイとは、ダビデの父親の名前です。 ダビデこそ、イスラエルの統一王国を打ち立て、神に愛され、イスラエルの人々に崇められた人物です。 その後の子どもたちから、この栄華を究めたイスラエルは南北ふたつの王国に分裂させられる。 ついには、どちらの国も外国によって侵略され滅んでしまうのです。 このダビデの血筋を引く家系から、救い主メシアが芽生えるとイザヤは預言したのです。 神の御心を離れてしまったイスラエルは切り倒され、その古い切り株を土台に新しい神の国の命がメシアとして芽生えていくと言うのです。 神の裁きという「神の厳しさ」を通して、「神の慈しみ」に生きるようになる。 今までとは不連続に、それまで全く知らなかった、気が付かなかった、隠されていて見ることができなかった世界に新しく踏み出していくことができるようになると言うのです。 パウロもまた、「バプテスマ」は新しくキリストという根や幹に「接ぎ木」されることである。 イエス・キリストに出会い、その救いの恵みに与り、神の子として新しく生かされることであると言います。 
 パウロは、「キリストに結ばれた者」とは、キリストの死に与かった者、キリストと共に葬られた者、古い自分に死んだ者であると言います。 キリストが自分のためにご自身の命をささげてくださったと信じて、自分の身を委ねてキリストに結びつけられるなら、古い自分がキリストと共に十字架につけられ、罪に支配されていた「からだ」が滅ぼされ、罪の奴隷から解放される。 そして、キリストが復活させられたように、私たちもまた新しい命に生きることができるようになると言うのです。 キリストの死とキリストの復活は一体です。 私たちの死と復活もまた一体です。 同じキリストに結ばれた結果です。 キリストと共に死ぬことがなければ、キリストと共に生きることは始まりません。 「キリストと共に死ぬ」とは、神の戒めを守ることのできなかったアダムとエバから延々と受け継がれてきた罪の体、死ぬべき体が滅ぼされて、再び奴隷として罪に仕えることがないようにするためです。 罪が支払う報酬は死です。 神が賜るものはキリストによるまったく新しい命です。 パウロはそのことを信じる根拠を、すべてのものを創造し、再び創り直す力のある神が独り子イエスを復活させたという事実に求めます。 その復活させられたイエスに聖霊の働きによって出会い、今までの古い自分が赦された実体験。 この神の御心に委ねきったイエス・キリストと共に生きているという喜びと感謝の実感に求めるのです。 「罪に対して死に、神に対して生きる」のです。

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「神に立ち帰る」 使徒言行録14章8~18節 

2022-02-27

 最初の頃の生まれたてのキリストの群れは、エルサレムの12人の使徒たちを中心としたユダヤ人だけの群れでした。 迫害されエルサレムを追放されたユダヤ人キリスト者たちによって、次第に異邦人の地へと広がっていきます。 その中心となった異邦人の地の教会がアンティオキア教会でした。 バルナバは、この教会の主任牧師といった存在でした。 そのバルナバがアンティオキア教会に連れてきた副牧師のような存在がパウロでした。 この教会に、ある日、「わたしが前もって決めておいた仕事に当たらせるために、バルナバとパウロをわたしのために選び出しなさい。」という聖霊の語る声が響いたと言います。 これから始まる異邦の地への宣教の働きのために、バルナバとパウロを送り出しなさいという神の声でした。 今朝の聖書箇所は、その世界宣教の途中、異邦の地リストラという町で起こった出来事でした。
 エルサレムであれば、会堂という語る場所もあったでしょう。 聞く耳をもった多くの人々もいたでしょう。 しかし、異邦の地では会堂などなく、町の門や異邦の神の神殿の入り口、人々が集まるところでしか語ることができない。 聞いた人々も、興味本位で聞く人もあれば、違和感を覚え石を投げつける人たちもいる。 大抵は、迫害を受け町から出て行かざるを得ず、次の町へ向かうその繰り返しでした。 ところが、リストラの町で起こったことはその逆で、町の人々からバルナバとパウロが崇められたと言います。 「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことのなかった男」とふたりは出会います。 もしかしたら、物乞いのために座っていただけ、諦めと絶望のうちに過ごしていただけかもしれません。 しかし、パウロはその男をじっと見つめ、「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認めた。」とあります。 そして、「自分の足でまっすぐに立ちなさい。」と大声で叫ぶと、その男は躍り上がって歩き出したと言います。 ただ座っているだけのその男に、パウロは何かを感じたのでしょうか。 ひとりだけ座ってじっと自分が語る神の言葉を全身で受け取っている男の姿を見た。 神から注がれる賜物を受け取ろうとするひとりの男の姿、神の呼びかけに応答しようとするその姿のうえに注がれる神の働きを、パウロは目の当たりに見て取ったのでしょう。 それを、「いやされるにふさわしい信仰」と表現しているのではないでしょうか。 「信仰」も「癒し」も、神の働きによって与えられる賜物です。 周囲の人たちは、この「癒しの奇跡」を見て、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった。」と大騒ぎになったのです。 異教のゼウス神殿の祭司までもが、捧げものをもってふたりのもとにやってきたと言います。 そのような有様であるからこそ、パウロの語るみ言葉をじっと聞いて受け取ろうとした「足が不自由で、座っていただけの男」に、「いやされるにふさわしい信仰」を見ることができたのでしょう。 パウロは、「このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように。」と、異邦人に初めて説教をしたのです。 偶像礼拝に浸り切っているリストラの町の人々こそ、知らず知らずのうちに神ならぬものに縛り付けられている私たちの姿です。 「人間が神ならぬものを創り出し、自分を満足させるものを神と崇めている。 わたしたちの神は創造主なる唯一の神である。 思いのままにしてご覧になっておられる寛容な神である。 実りを注ぎ喜びで満たす恵みの神である。 そのお方のもとに立ち帰りなさい。」とパウロは異教の地の人々に叫んだのです。 私たちの身に起こることはすべて、神の赦し、御心なしに訪れない。 小さな生活のうえに起こされる出来事も、人の過ちによって起こされた出来事も、自然災害も、すべては神の摂理のもとにあり、ご愛とご真実によって働いて、人の過ちや弱さを越えて、私たちの心を喜びで満たしてくださろうとしているのです。 そのお方の摂理のもとに、私たちは立ち帰りましょう。

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「赦された共にあずかる食事」 マルコによる福音書7章1~15節 

2022-02-20

 人里離れた所で、イエスは手元にあった「五つのパンと二匹の魚」を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに「男の数で五千人」に配らせた。 すべての人が食べて満腹した。 パン屑と魚の残りを集めると、12の籠にいっぱいになったと言います。 有名な「奇跡」のお話です。 ところが同じような「七つのパンと小さな魚」によって、「四千人の人々」が食べて満腹した。 残ったパンを集めると、七籠になったお話が記されているのです。 今朝の聖書箇所はこのふたつの「奇跡」に挟まれています。 わずかな食べ物で大勢の人々が養われたという「奇跡」の出来事以上に、その場にいたすべての人が区別なく、一緒に食べることができた「奇跡」の出来事の方に重点が置かれているように感じます。 なぜなら、イエスのもとに集まってきた人々とは、当時のユダヤ社会が、「汚れたもの」として排除していた人々であったことは容易に想像ができるからです。 「汚れたもの」に触れてはならないと、律法によって厳しく細かく禁じられていたからです。 「洗わない手で食事をする」ことなど、決して許されることではなかったはずです。 手洗いなどできようはずもないところで、すべての人が手を洗わないで、手渡しで食べ物を分け合っているという、当時としては考えられない、律法による支配に風穴を開ける大事件となったのではないでしょうか。 ファリサイ派の人々と律法学者たちは、衛生上の問題だとしてではなく宗教上の問題として、手を洗わないで食事をするイエスの弟子たちを咎めたのです。 
 「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 激しい詰問とでも言えるこの問い糾しにイエスは、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。 あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものだ。」と答えたのです。 「昔の人の言い伝え」とは、律法の戒めを守るために定められ、積み重ねられてきた具体的な生活の規則です。 その言い伝えが、ついには律法と同じ重みをもつまでになったのでしょう。 イエスはこの「昔の人の言い伝え」を、「人間の言い伝え」、「自分の言い伝え」と言い換えています。 「口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」というイザヤの預言を引用し、口先と心を対比します。 そして、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」と、外から入る食べ物が人を清くしたり、汚したりするものではないと言うのです。 「人の口は、心の中からあふれ出ることを語る。」と言われるのです。 「人間のつくった言い伝え、自分に都合のいい言い伝え」から解放され、その心を神のもとに戻して生きていきなさいと願われたのです。 イエスは社会から排除された者も、そうでない者も分け隔てすることなく、神から授けられる食べ物を隅々にまで配り、皆と一緒に食事をされたのです。 神の掟を守らなくてもよいようにと、言い伝えをつくってはならない。 悪用も乱用もしてはならない。 神に仕えることと、神が愛しておられる人に仕えることを切り離してはならないと言われたのではないでしょうか。 この給食の「奇跡」は、もうひとつ驚くべきことを語っています。 人々が満腹した後に、残った食べ物が集められているのです。 そこにいた人たちだけに与えられた「食卓」ではなかったのです。 この「食卓」にあずかることのできなかった人たちのため食べ物が残されているのです。 私たちは、イエスを通して与えられた食べ物を互いに分ち合う、送り届ける「祈り」を持たせていただきたいと願います。 この食卓に与かるべき人たちが、今もって大勢おられるのです。

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「信仰の成熟」 ヨハネによる福音書3章1~15節

2022-02-13

 イエスが宣教の旅に慌ただしく出かけようとしている矢先、ひとりの金持ちの男が走り寄って、ひざまずいてイエスに尋ねるのです。 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 神から与えられた戒めを忠実に守るなら、神から永遠の命が授けられると信じられていた当時の社会ですが、この男はそれでも本当に授けられるのだろうかと確信が持てなかったのでしょう。 イエスはその姿を見つめ慈しんで、「あなたに欠けているものが一つある。 行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。 そうすれば、天に富を積むことになる。 それから、わたしに従いなさい。」と言われたのです。 今からでも遅くはない、自分がしがみついているものから一旦離れ、新しくこの私に従うようにと言われたのでした。 この男にとって驚くべき言葉でした。 揺れ動く自分自身の心に囚われ、「イエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」と言います。 
 今朝の聖書箇所にも、ニコデモという人物が登場します。 ファリサイ派に属するユダヤの議員であったと言いますから、政治的、宗教的リーダーであったのでしょう。 イエスと対立する立場にあるそのような人物が、人の目を気にしながら、恥も外聞もなく、ある夜イエスのもとにやってくるのです。 過越祭の間にイエスがなさったしるしを見て、イエスに心酔していたのでしょう。 ここでもイエスは、しるしを見て揺れ動くニコデモの心の内を見透かすかのように、「人は、新たに生まれなければ、神の国に入ることができない。」と言われたのです。 「永遠の命を持つ」ことと、「神の国に入る」ことが同義語のように使われています。 この「新しく生まれる」という言葉を、イエスは「上から与えられる命に生きる」という意味合いで語っています。 ニコデモは、「年をとった者が、もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と、生まれ変わるという意味合いに受け取るのです。 狼狽したニコデモにイエスは、「肉から生まれたものは肉である。 霊から生まれたものは霊である。 肉とは異なる新しい命に生まれなければならない。 だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われたのです。 これは、始めに戻って過去を清算して、新しくやり直すことではない。 しがみついている自分の立場、縛り付けられているこの世の習わしや人の目から離れて、古い自分を捨てて新たに生かされるようにとイエスは求められたのです。 「水」とは、今まで頼みにしてきた「自分」を葬り去るイエス・キリストの十字架の贖いの業でしょう。 「霊」とは、風のようにいつからでも、どこからでも自由に大胆に働いておられる神の息の働きのことでしょう。 理解することも、説明することもできないこの霊の働きに、「あなたの身を任せるように。 今、存在していることが赦されているそのところで、イエスと出会ったその場所から、その時から、今までとは異なる天から与えられる神の赦しと霊の働きにより、神のもとから授けられる新しい命に生かされるように。」と語られたのです。 金持ちの男が手放すことのできなかった「自分の持ち物」、ニコデモが離れることのできなかった「今の自分の立場」から解放されて、神の赦しと神の霊を受け入れ、生き方が変えられるのです。 ニコデモはこの後、聖書に二回登場します。 一回目は、議会で裁かれようとしているイエスを弁護する場面です。 仲間の議員たちに、「あなたもガリラヤ出身なのか。 イエスの仲間なのか。」と問われ、黙ってしまうのです。 二回目は、処刑されたイエスの遺体を受け取り、香料を添えて、身に迫る危険を顧みず公然と手厚く葬るのです。 時間をかけて、変えられていったこのニコデモの姿は、私たちの弱々しい「信仰の成熟」の姿を表しているのではないでしょうか。

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