「恐れ、思い悩みとともに」 ルカによる福音書12章22~34節
イエスは、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と言います。 この直前の箇所で、「愚かな金持ちのたとえ」で、地上の富に対する執着、その貪欲さを戒めておられます。 明日命が取り上げられる者がそのことを知らず、「多くの蓄えができた。 大きな倉を建てた。 そこに穀物や財産をしまった。 これから先何年も生きていくだけの蓄えができた。 食べたり飲んだりして楽しもう。」と語る金持ちの愚かさを、イエスは「たとえ」によって語られたのです。 「命を与えてくださるのも、命を取り上げられるのも神である。 自分の為にいくら富を蓄えても、神の前に豊かになるものではない。 命のことで、体のことで思い悩むな。 ましてや、命や体を維持し支える手段に過ぎない食べること、着ることに思い悩むのは愚かなことである。」と言われたのです。 そして、「カラスのことを考えなさい。」と言われる。 カラスとは、当時の社会では汚らわしい鳥ということです。 「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。」汚らわしい存在とみられている鳥でさえ、神は養っておられる。 同じように、野の花も、「今日は野原にあって、明日には炉の中に投げ込まれるはかない存在であるものでさえ、栄華を極めたソロモン王の宮廷以上に神は着飾ってくださっている。 あなたがたはなおさらのことである。」とイエスは言われるのです。 確かにイエスは、「この世の人々が切に求めているもの」について、「思い悩むな」と言われています。 しかし、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。 だから、この世の人々が切に求めているものを求めないで、神の国を求めなさい。 あなたがたにとって必要なものはすべて神がご存じで、神の国を求めることによって加えて与えられる。」と言われているのです。 イエスは愛する弟子たちに、イエスご自身の生涯、生きる姿、語る言葉を思い起こせ。 その体験の中に、新しい生きる意味を捜し出し、新しい神の国に生きる意味を見出せ。 今まで抱えて来た思い悩みを全部差し出して、すべてをご存じの神に委ねて、その神が備えてくださっている世界に生きるようにと祈っておられるのです。 だから、しばしの間、苦しみと悲しみに埋もれ、これからイエスご自身と同じ道を歩むことになる弟子たちに、「来るべき世に、神の恵みに与る神の国を求めて生きるように」と、「小さな群れよ、恐れるな。 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と祝福してくださっているのです。 そのためにイエスは、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。 尽きることのない富を天に積みなさい。」と言われたのです。 イエスはファリサイ派の人たちに、「実にあなたたちは、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。 外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。 ただ、器の中にある物を人に施せ。 そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」(ルカ11:37-41)とも言われています。 当時の「施し」は、貧しい人に直接献げられたのではなく、会堂に置かれていた箱に献げられたのです。 一旦、神に献げられたもの、神への献げものとして「施し」が考えられていたのです。 「私たちの内側に隠されているものすべてを神の前に差し出しなさい。 そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」と言われているのです。 私たちが担っている思い悩み、苦しみ、悲しみこそ、回避するべきものではなく、しっかりと向き合うべきものである。 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われているのです。
[fblikesend]「持てるものを重んじる主」 マルコによる福音書6章30~44節
イエスにより宣教の地ガリラヤに杖一本のほか何も持たないで遣わされた使徒たちは、「イエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」と言います。 彼らには様々な困難や苦しみもあったでしょうが、「残らず報告した。 食事する暇もなかった。」と言いますから、充実して、高揚して、喜んで報告していたのでしょう。 彼らの弱さや限界をご存じのうえで、「さあ、あなたがただけで人里離れた所に行ってしばらく休むがよい」とイエスは養っておられるのです。 そのような最中に起こされた、福音書すべてが記す「五つのパンと二匹の魚」による五千人の養いの箇所です。 ガリラヤの領主であったヘロデは、バプテスマのヨハネの首をはねて無残に殺してしまう恐ろしい、民衆のことなど頭に毛頭ない人物でした。 本来、この民衆のために執り成すべき務めを与えられた祭司や律法学者たちもまた、民衆の存在よりも自分たちの存在を第一とする人たちでした。 このような「暗闇」の社会に遣わされたイエスは「光」として新しく神の国が訪れたと、使徒たちとともに宣べ伝え始めたのです。 その呼びかけに押し寄せて来た群衆の姿に、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と言います。 これが、ガリラヤの人たちに対するイエス・キリストの眼差しです。 「羊」は自己管理のできない存在と言われ、「深く憐れむ」とは同情の意味を遥かに超えた「共に苦しむ」という意味合いの強い言葉です。 父なる神に遣わされ十字架の時が迫っていることを感じながら、その「救いの業」に、確信と願いを新たにされたのではないでしょうか。 ガリラヤ湖に近接する人里離れた所、夕暮れ時、時間も経ち空腹を覚え始めた時です。 このイエスの眼差しに対する弟子たちの眼差しが、「人々を解散させてください。 そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。」というものでした。 理性や経験に裏付けられた的確かつ賢い進言です。 イエスは、「もし、あなたがたにこの神の民を養うという務めがあるなら」と、弟子たちの「意志」に「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と迫ります。 「人里離れた所です。 すべての群衆を養うほどの大量のパンをいったいどこから買ってくるのですか。」という弟子たちの問いに、「それでは今、ここに、パンはいくつあるのか。 見て来なさい。」とすでに与えられているものを確かめさせ、群衆を青草のうえに座らせ、こんな僅かなものと思われた「五つのパンと二匹の魚」を取り、大群衆を養うものとして「天を仰いで賛美の祈りを唱え」祝福されたのです。 それらを弟子たちに預け、一人も洩れることなく配らせたのです。 すると、すべての人が満たされた。 その「僅かなもの」は決して減ることはなかったと言うのです。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。 あなたがわたしと共にいてくださる。 わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩編23編)というダビデの賛美の歌が、イエスの深い憐れみによってここに成し遂げられたと語られているのではないでしょうか。 「僅かなもの」とされた存在によって、すべての人が満たされたという事実が示されています。 ものの大きさや量の多さではない。 イエスによって祝福されたものであるかどうか。 イエスの深い憐れみに押し出されたみ心に適うものであるかどうかです。 その祝福されたものを弟子たちが配り、分け与えるのです。 配り分け与えられたものこそ、イエスご自身のからだでしょう。 「受け取って味わいなさい。 分かち合いなさい。」、「足りないのは、気づくこと、差し出すこと、分かち合うことに足りないのだ。」とイエスの言葉が響きます。
[fblikesend]「信仰に生きるとは」 コリントの信徒への手紙二4章7~15節
なぜ、私たちは神さまを信じることができるようになったのでしょうか。 パウロが語るように、「隠されていた神秘としての神の知恵」としか言いようがないのかもしれません。 信仰が芽生え、養われてきたのも、小さな決断が与えられたのも、見えていなかったことが見えるようになったことも、気づいていなかったことに気づくようになったことも、この世のものさしで測ることができない意味を曲がりなりにも悟り知ることができるようになったのも、自分自身の側に理由があるのではなく、神の側にその理由があるように思えるのです。 神ご自身が決意をもって繰り返し私たちに出会い現れてくださり、備えてくださっているものを指し示して、「あなたはこれを信じるか」と迫り、それに私たちが自らの弱くて壊れやすい小さな「意志」をもって辛うじて決断し従っていくことができるようにと、神が願っておられるからでしょう。 信仰は、自分の力でもつことのできない、私たちが持ち合わせていない神の霊によって、神との交わりによって授けられるものです。
パウロは、自分自身のことを「土の器」と言います。 どこにでもある土塊から造られたもろくて壊れやすい、飾るにふさわしくない卑しい器であること、同時に、陶器士が粘土をこねてつくり上げるように神がそれぞれにふさわしく造られた存在であることも示しているのでしょう。 そのような「土の器」の中に、「宝」を納めていますとパウロは言うのです。 この「宝」を、「神の並外れて偉大な力」あるいは「神の栄光を悟る光」と表現しています。 この「宝」は、「神のものであって、わたしたちから出たものではない。」 「四方から苦しめられても行き詰らない。 途方に暮れても失望しない。 虐げられても見捨てられない。 打ち倒されても滅ぼされない」とパウロが語っているのは、自分自身の中に宿っておられる復活された霊なるイエス・キリストのゆえに、そのイエス・キリストによって語られた神の約束の言葉のゆえにということです。 この章の1節に、「わたしたちは憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。」と語っているところから、むしろ神から自分に授けられた「務め」のゆえに「落胆しません。」 5節の「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えているのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」という授けられた「務め」のゆえにと語っているのではないでしょうか。 もろくて壊れやすい、飾るにふさわしくない卑しい「土の器」に、イエス・キリストを宣べ伝える務めという「宝」を盛られることによって、イエス・キリストの命が自分自身の体に現れる。 「土の器」のひび割れたところからイエス・キリストの命がにじみ出てくると言うのです。 どこからも推薦状を受けていなかったパウロの資格について批判していたコリントの教会の人たちに、パウロは逆に神ご自身から与えられた務めを「宝」と表現し、その御計画に沿って務めが果たされるなら、パウロ自身がいかに批判されようが、あなたがたコリントの教会の人たちのうえに、イエス・キリストの祈りが現れ出ると涙ながらに訴えていることが、この「土の器」と「宝」という言葉に凝縮されているのです。 「たとえ、わたしたちの中に死が働いたとしても、あなたがたの内には命が働くことになる。 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒にその御前に立たせてくださる。」とパウロは確信しているのです。 どのような「器」であるのかが問題ではない。 その器に盛られている「宝」、その人にしか担うことのできない「務め」が大切である。 「土の器」のひび割れも、もろさも、穴ぼこも、弱さも、醜さも、そこからイエス・キリストの命が溢れ出るとパウロは言うのです。
「罪に支配される人の怒り」 創世記4章1~16節
最初の人アダムとエバは一体となって、「主なる神によって男の子を得た」と言います。 最初の家族の誕生です。 兄カインは「土を耕す者となった」 弟アベルは「羊を飼う者となった」と言います。 この時すでに、主なる神に「献げ物をささげる」という神への礼拝があったと言うのです。 兄カインは、「土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。」 弟アベルは、「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」と言います。 どちらも、それぞれに与えられた大事な務めを通して与えられた「実り」です。 ところが、主なる神は、「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物に目を留められなかった。」のです。 これに兄カインは「激しく怒って顔を伏せた」とあります。 カインの怒りはどこから起きているのでしょうか。 兄としてのプライドでしょうか。 弟と比較してのひがみでしょうか。 神は兄カインに、「どうして怒るのか。 どうして顔を伏せるのか。 もしお前が正しいのなら、顔を上げ、わたしの前に立ち続けることができるはずではないか。 顔を背ける必要もないではないか。 もしお前が正しくないのなら、そのことを隠してそのままにしておくなら、罪に支配されることになる。」と言われたのです。 神は、「目に留めるかどうかはわたしの問題である。 理由のない怒りを、わたしの前に隠そうとしても無駄である。 それを隠し持ったままにするなら、カインあなたは罪に支配されるようになる。 しかし、ありのままの姿をさらけ出し顔を上げるなら、心の中にあるその過ちを支配することができるようになる。」と、兄カインに悔い改めを迫っているのでしょう。 こう迫られたカインは、その「怒り」を神に向けず弟アベルに向けるのです。 ついに、兄カインは言葉巧みに弟アベルを野原に導き出し、殺してしまうのです。 むくむくと起こった「怒り」が、次々と罪を産んでいく有様です。 一方の「献げ物」だけに目を留められたその理由を、神は明確には述べてはおられないことに留意する必要があります。 私たちの人間の側の違いを詮索する前に、神の側のみ心に目を向ける必要があるように思うのです。 神は兄カインに、「お前の弟アベルはどこにいるのか」と言います。 兄カインと弟アベルの特別な関係を、神ご自身が授けられたことを告げているのです。 「アベルは、わたしが授けた特別なお前の弟である。」と神は兄カインに告げ、それに兄カインは「知りません。 わたしは弟の番人でしょうか。」と、神から授けられた特別な交わりを「関係ない」と拒むのです。 神は、「流された弟アベルの血が、土の中からわたしに向かって、正しい裁きを求めて叫んでいる。 このままでは、その土を耕してもお前のために作物は生み出されない。 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。 それでよいのか。」とご自身のもとに立ち帰るようにとカインに呼びかけるのです。 カインはこの神の呼びかけに、これから神に裁かれ、さまよい、命を狙われる者となることを恐れて悲しんではいるが、神に授かった交わりを壊した過ちを悲しむことなく、自分の身を自分の力で守ろうと神なき世界に生きて行こうとするのです。 それでもなお神は、そのようなカインでさえも見捨てることなく、「守りのしるし」を与えてこの地上でのさすらいに備えさせ、ご自身のもとに立ち帰る願いを諦めないのです。 この「守りのしるし」こそ、イエス・キリストの十字架の死と復活でしょう。 ご自身に背を向ける一人の罪人を神は憐れんでおられるのです。 神が目を留めておられるのは、いつも弱き者、小さき者です。 彼らを憐んで、戸口で待ち伏せしている罪に支配されないよう、人と人との交わりが壊されないようじっとご覧になっておられるのです。
[fblikesend]「忘れているような小さな愛」 マタイによる福音書25章31~40節
衝撃的なイエスの言葉です。 「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、右と左により分けられる。」と言うのです。 右側にいる人たちを「わたしの父に祝福された人たち」と呼び、「天地創造の時から用意されている神の国を受け継ぎなさい。 あなたたちは永遠の命にあずかる。」と言われる。 左側にいる人たちを「呪われた者ども」と呼び、「用意してある永遠の火に入れ。 あなたたちは永遠の罰を受ける。」と言うのです。 このイエスのみ言葉は、因果応報でも勧善懲悪でもありません。 右と左により分けられることだけを主眼としたみ言葉でもありません。 「終わりの日」があること、やがてひとりひとりの決算の時、精算の時がくる。 イエスが再び私たちのところに戻って来られて、最後の審判を行う座に着き私たちをより分けると語っています。 栄光の座に着いたイエスの裁きとは果たして、私たちを罪に定め、罰を与えることでしょうか。 イエスは何のために人間の体を背負って、父なる神に遣わされ、傷つけられ、痛めつけられ、殺されまでして地上の生涯を送られたのでしょうか。 何も見えていない私たちが、この「罪なきイエス」の姿を見つめて自分の罪深さを知らされ、ありのままの自分の姿を示され、神のもとへ戻されていく道を切り開く為でした。 父なる神の救いの招きを、その御心通りに果たす為でした。 天地創造の際には備わっていた神さまとの正しい関係を回復させる為でした。 イエス・キリストの最後の裁きこそ、罪と死に縛られ、がんじがらめになっている私たちを死んでいた世界から救い出し、神の国を取り戻させる希望の時です。 神の恵みだけが支配する世界に、再び立ち帰る希望の時なのです。 裁き主は、傷跡の残る復活された主イエス・キリストなのです。 世界は、この救いの完成に向けて突き進んでいるはずです。 すべてを知り尽くした「羊飼いが羊と山羊を分けるように」より分けるのです。 山羊にならないようにとか、左側に行かないようにとイエスは語っているのではありません。 両者をより分けるものさしはどこにあるのかということです。 イエスは、「飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人に見舞い、牢にいる人に尋ねる」ということだと言われる。 どれもこれも、当時の社会ではありふれた日常生活の小さなことです。 日常生活の中にいる「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことだ。」と、その理由を述べるのです。 「わたしの兄弟」とイエスがお呼びになっている最も小さな者とは、困っている人、虐げられている人、身近にいる人の目に留まらない小さな存在の人たちのことです。 イエスは、地上の生涯でこのような人たちと共におられたのです。 彼らを救い出すために、縛られているものから解放させるために父なる神に遣わされたのです。 日常生活の些細なことこそ、この「わたしにしてくれたことなのだ」と、「そのようなことをいつしたでしょうか」と尋ね返すぐらい忘れてしまっているような些細なことを、もうすでにその一つ一つを心に留め、数えてくださっているのです。 イエスは日常生活の中においても、神のご愛を注いで働いておられるのです。 私たちもまた、神のご愛を注がれて、その恵みに満たされて感謝して日常生活を送っていることに気づかされなければなりません。 決して、その相手からの報いを求めてもいないし、自分の為に行っていることでもないでしょう。 この与えられた恵みを分ち合うという小さな営みを、主イエスがひとつひとつを大事に見つめながら数えて天に記してくださっているのです。 もうすでにひとりひとりの決算を出して待っていてくださるのです。
[fblikesend]「起きなさいと言われるイエス」 ルカによる福音書7章11~17節
聖書箇所の冒頭に「それから間もなく」とあります。 カファルナウムでローマの百人隊長に重んじられていた部下が病気で死にかかっていた際に、その部下が病気から元気になったというイエスの癒しの業が引き起こされた直後、ナインという城壁に囲まれた町での出来事です。 その町から外に向かって出て行く葬儀の列の一行と、反対に町の中に入ってくるイエスの弟子たちと群衆の一行が交差するのです。 葬儀の列の先頭は、「一人息子を亡くしたやもめ」であった。 早くして夫を亡くし、続いて今一人息子を失って悲しみに暮れるひとりの女性でした。 「町の人が大勢そばに付き添っていた」と、葬儀によって母親を慰めようとしているのです。 町の中に入って行こうとするイエスを先頭とする列の一行が、母親の涙を止めるだけでなく、当時の「泣き女」に象徴されるような嘆きの儀礼で飾るような葬儀にストップをかけるのです。 「主はこの母親を見て、憐れに思い」とあります。 イエスではなく「主」という称号は「復活されたイエスの称号」です。 「わたしたちの主」という当時のキリスト者の最も簡潔な信仰告白の言葉です。 「憐れに思われた」という言葉は、主であるイエスだけに用いられている「はらわたのそこから愛する憐れみ」という言葉です。 イエスが同情という一般的な感情を越えて、神のご愛を示されたということです。 人間にとってどうすることもできない冷徹な「死」を前にして、イエスは「はらわたに痛みを憶えるほどの神の憐れみ」を示し、この母親に近づき、「もう泣かなくともよい」と語りかけられたのです。 死体に触れてはならないという当時の律法を越えて、イエスは「棺に手を触れられた。 するとその葬儀の列は立ち止まった。」と言うのです。 驚くべきはその直後の、「若者よ、あなたに言う。 起きなさい。」という語りかけの言葉です。 「起きなさい」とは、神が死人の中から復活させる時に用いる言葉です。 「よみがえりの主」が、神の御心に突き動かされて神のご愛を表された瞬間でした。 「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」と言います。 生きている者だけの町の中から、墓に向かって町の外に運び出されていた「棺」が、思いがけず復活の主と出会ったのです。 神の激しいご愛が主イエスを通して目に見えるものとなったのです。 諦めていた「死」から解放される道があること、神ご自身の固い決意により道が切り開かれ、備えられた神の国があることを示すために、その「棺」にイエスは手を触れたのです。 死んだ者に「起きなさい」と命じることのできるお方がおられることが示されたのです。 イエスはその一人息子を生き返らせただけでなく、「その母親にお返しになった。」 人の「死」の支配から、母親と一人息子の小さな家庭を解放させたのです。 「わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39) 私たちの側の状態に関係なく、父なる神の憐れみにより、突然の神との出会いにより、神の国に導かれ引き戻されるのです。 私たちが通らなければならない道を、私たちの初穂として歩んでくださった主イエスを仰がなければなりません。 そのイエスを遣わしてくださった父なる神のご愛に賛美の礼拝をささげなければなりません。 イエスの「死」によって、かつて天地創造の際には備えられていたはずの「生」を取り戻すことが示されたのです。 このイエスを通して示された神のご愛の証人となることも、私たちにしか語ることのできない証言を語ることもできるのです。 よみがえりの主イエスは「起きなさい」と呼びかけ、「この神のご愛をなぜ受け取らないのかと」嘆いて涙しておられるのです。
[fblikesend]「神を喜ぶ、神が喜ぶ恵みの世界」 ルカによる福音書18章9~14節
イエスの譬えに、ふたりの「祈り」の姿が記されています。 ひとりは、「ファリサイ派の人」です。 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」の代表でしょう。 その祈りは、「ほかの人のようになっていないこと」を感謝するのです。 奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、罪人と呼ばれている者のような「ほかの人」でないことを喜んでいるのです。 そして、「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、神の前に胸を張るのです。 もうひとりは「徴税人」です。 「徴税人のような者」と揶揄されるぐらいに罪人の代表と見なされている人でしょう。 その祈りは、「遠くに立って、目を天に上げようとせず、胸を打ちながら、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈る」姿であったと言います。 「遠くに立って」とは、神殿に近寄ることのできなかった人目を忍ぶ人であったのでしょう。 「目を天に上げようとせず」とは、神を直視できない、神に顔を合わせることのできない人を示しているのでしょう。 「胸を打ちながら」とは、言葉で表現できない苦しみを表す凄まじい感情の現れでしょう。 そして、「罪人の私を憐れんでください」と自らを罪人と言い、頼るべきものがなく祈るしかないと懇願している人の姿です。 この二人の祈る姿を通して、イエスは「父なる神に義とされる」ということを示されるのです。 「神に義とされる」とは、道徳的な正しさを語っているのではありません。 すべての人は、神との正しい関係をもつことが約束として赦されている。 神がご自身の民として私たちを扱ってくださる、私たちが神を神として礼拝し、賛美している関係を言うのです。 イエスは、自分が正しいと自分の義に生きていると確信し自負していた者が神に義とされなかった。 自分が正しい人にふさわしくないと思い込んでいた者が神に義とされたと言うのです。 ルカは他の箇所でも、バプテスマのヨハネが授けるバプテスマを、「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人でさえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた。 しかし、ファリサイ派の人々は、彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」(ルカ7:29-30)と言います。 ここで用いられている「御心」とは、神の「固い思い切った決断、苦渋の選択」という意味合いが強い言葉なのです。 神の救いの「御心」こそ、壮絶な苦渋の決断そのものです。 わが子イエスに私たちと同じようなからだを背負わせ、すべての罪人を救い上げるために十字架に架けて、自ら永遠の裁きにかける決意をされたではありませんか。 そこまで苦しみ抜かれ、愛し抜かれた神の決断である「御心」を、律法に従って神の御心に従っていると確信するファリサイ派の人は、そのようなものは要らない、自分には不要であると拒んだとイエスは言うのです。 一方、「罪人のわたしを憐れんでください。」と祈るしかないと藁をもすがる思いで祈る徴税人は立ち直らされ、救いの喜びを分かち合うまでになっていった。 罪人の彼らを造り変え、立ち直らせた原動力はこの「神の御心」、苦渋の決断です。 私たちの側の振る舞いや祈りや信仰生活の結果でもありません。 神が私たちを捨て去らず、苦渋の決断をもって臨んでくださったからこそです。 この決断を受け取って、ご自身のもとに戻って来ようとする人の姿が、どれほど神の喜びであるだろうかと思わされます。 私たちが神に愛されていることを知る以上に、神こそが私たちを愛してくださっていることを仰ぐことです。 神を私たちが喜ぶ以上に、神が私たちを喜んでくださっている恵みの世界を喜ぶことです。 かつて神が「良し」として祝福された安息の世界に生きていることこそ、「神に義とされる」という神と私たちとの正しい関係なのでしょう。
[fblikesend]「主に祈られた私たちの祈り」 ルカによる福音書23章31~34節
イエスが十字架に架けられる週の木曜日の夜、イエスは弟子たちと最後の晩餐を共にとられ、祈るためにオリーブ山に向かわれたのです。 その深夜、裏切ったユダに指示された兵士たちにイエスは捕らえられ、裁かれ、処刑されていきます。 その間、イエスは愛する弟子たちに向けて、「あなたがたはわたしを見捨てて逃げ出すだろう」と予告するのです。 弟子たちはそんなことはあるはずがないと主張します。 その中心人物であったペトロに、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とイエスは言うのです。 「小麦のようにふるいにかける」とは収穫の時の選別作業です。 倉に納めるべき小麦と、焼き捨てられる雑穀に振り分けられるということでしょうか。 あなたがたすべてがこのわたしを裏切るという出来事は、神のもとからあなたがたを振るい落そうと願っているサタンの願いから出てくることである。 その思いが神に聴き入れられたとしても、神が赦されたご計画の中にある出来事であるはずである。 神はサタンの願いを聞き入れられた以上に、このわたしの願いを聞き入れてくださったと、イエスはペトロに言うのです。 このイエスの父なる神への願いこそ、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」という「祈り」です。 これを聞いたペトロは猛然とイエスに反論し、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」と、自分の固い決意と覚悟を表明するのです。 これに応えてイエスは人間の決意と覚悟の虚しさを、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と語るのです。 ペトロは決して臆病な者ではなく、イエスが捕らえられた際には剣をもって相手に立ち向かい、また危険を冒してまでもイエスの姿を大祭司の庭に入るまでに追いかけるのです。 しかし、ついに「あなたもイエスの仲間ではないか」という一声に、「わたしは知らない。 仲間ではない。 言うことが分からない。」と、ペトロはイエスが予告されたとおり三度否定するのです。 その時、「イエスは振り向いて、ペトロを見つめられた」と記されています。 ペトロはこのイエスの眼差しに、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」という言葉と、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」というイエスの言葉を思い起こすのです。 ペトロは「外に出て激しく泣いた」と言います。 泣くことしかできなくなったペトロの「沈黙の祈り」の時でしょう。 イエスはペトロに、「信仰がなくならないように」と祈られたのです。 ペトロが祈り求めたからイエスが答えて祈られたのではなく、ペトロの信仰がたとえもろくて壊れやすいものであったとしても、ほんのわずかなものであったとしても、ペトロには信仰があると言っている。 その信仰がなくならないように、もうすでに祈ったと言うのです。 「振り向いてペトロを見つめた眼差し」こそ、このイエスのとりなしの祈りの立ち姿です。 ペトロは、ありのままの姿で泣くしかなかった。 それでも、イエスの前に立つことが今赦されていることに気づいたのです。 すべての弟子たちに入り込んできたサタンの思惑を、「イエスのとりなしの祈り」が凌駕したのです。 祈ることさえ、求めることさえ失ってしまった「沈黙の祈り」は、イエスの「とりなしの祈り」に支えられて再び立ち上がるのです。 イエスはこの立ち上がりを確信して、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と新しい務めをすでに与えておられるのです。 イエスの「とりなしの祈り」に支えられたペトロたち、私たちの消えてなくなるような信仰のうえにご自身のからだをつくり上げると言われたのです。
[fblikesend]「神の国を受け継ぐからだ」 コリントの信徒への手紙一15章42~53節
パウロは種蒔きと収穫という日常の業を用いて、「種が蒔かれて死んで、そのからだが朽ち果てた後に、それぞれ穀物の別のからだをもって生かされているではないか。」 そのことを、「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。 神は、御心のままに、一つ一つの種に、それぞれの命に体をお与えになります。」と、自然の命の体の「死」と霊の命の体の「生」と捉えているのです。 穀物という「別のからだ」を新たに創造して与えるということを、種粒という「初めの自然の命の体の創造」に対して、終わりの日の「最後の霊の命の体の創造」と言うのです。 「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」と、「神の初めの創造」と「神の最後の新しい創造」を語るのです。 しかし、それには、順序がある。 「最初に、自然の命の体があり、次いで霊の命の体があるのです。」と言うのです。 この世界には、それぞれの命にふさわしいからだが神によって与えられています。 「生まれながらの自然の体」です。 しかし、「霊の命の体」とは、生まれながらの人間に自然と備わっているものではない。 特別な賜物である聖霊が神によって注がれて、それを私たちが受け取って内に宿すもの、神の国に属するものです。 天地創造の際には、神の息が吹き入れられて備えられて宿していたものを、いつしか失い手放してしまったものを取り戻した。 その「霊の命の体」を最初に体験した人間がキリストでした。 イエスがバプテスマを受けるシーンを考えてみてください。 大勢の群衆に紛れてバプテスマを受け、祈っておられたイエスに、「目に見える姿で聖霊が鳩のように降った。」 その聖霊を受け取ったイエスに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声が、天から聞こえた。」と言うのです。 死を味わって復活されたイエスは、間違いなく「からだ」をもったお方でした。 そのままのお姿で天に挙げられ、同じ姿でまたおいでになると神は約束されたのです。 イエスの生涯も、復活も、昇天も、再臨もすべて人間としての「からだ」をもったイエスに起こされる、神の御心の中にある「聖霊」の業です。 私たちは、この復活されたイエスに出会い、聖霊の業によってこのイエスに結ばれて生きるようになるのです。 パウロはこのイエスを、「神の賜物である聖霊を降されて、人間の初穂として最後に創造された最後の人アダム」と言い、「霊なるキリストとなって新しい命を与える霊となられた」と言うのです。 この命を与える霊こそ、自分のうちに生きている「霊なるキリスト」、これに結び付けられて生かされているというのがパウロの信仰なのです。 「朽ちないものとなる、輝かしいものとなる、力強いものとなる」とは、「死」に縛られている命を解放して新たな「からだ」を与え直すという聖霊の業なのです。 それは、「神の国を受け継ぐため」です。 「すべての者の身に起こる」ことです。 「今とは異なる状態に変えられます。」 それも、「たちまち、一瞬のうちに」です。 「この朽ちるべきものが朽ちないものを着る、この死ぬべきものが死なないものを着るだけで、今のからだをもってでも、この世の現実を生きていくことができるようになる。 その保証として、聖霊が与えられ神の「最後の創造の業」は始まっているのです。 私たちが授けられている命を表現する「からだ」は、聖霊という神の約束の賜物が注がれて、苦しみを背負ってでも、悲しみを引き受けてでも生きることができるようになる。 「最後の神の創造の業」のゆえに、希望を持つことができるようになるのです。 むしろ、私たちの味わう苦しみや悲しみ、不安や思い煩いこそ、私たちの中に聖霊が宿っている証しなのではないでしょうか。
[fblikesend]「神の約束としての賜物」 使徒言行録2章37~47節
「聖霊が降る、受ける」とは、私たちにとってどういう意味のある出来事なのでしょうか。また、「聖霊」とは、いったい何者なのでしょうか。 ルカはこの出来事を、福音書の続編として「使徒言行録」に客観的に詳しく記しています。 ヨハネによる福音書はこのルカとは異なり「聖霊が降る」出来事を、「弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:19-23)と端的に記しています。 かつてイエスが「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。 あなたがたのところに戻ってくる。」と約束してくださっていたように、復活されたイエスは絶望し意気消沈していた弟子たちの真ん中に現れて、聖霊を注いでくださったのです。 一方、ルカは、聖霊が弟子たちの上に降った有様を詳しく語っています。 「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに話し出した。 復活したイエスが度々現れていたにも関わらず信じて受け入れることのできなかった弟子たちが、イエスを賛美し、復活されたことを大胆に証言するまでに、新しい人間として生まれ変えられた。」と、聖霊の業として証言しているのです。 その中心人物であったペトロの説教は、新しい霊の目が開かれたとしか言いようがありません。 その変貌ぶりは目を見張るばかりで、イエスによくたしなめられていたペトロ、イエスが復活されたと告げられ「たわ言のように思われた」と信じることができなかったペトロとはまるで別人です。 そのペトロの言葉に、人々は心を打たれて、「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねるまでになったと言います。 ペトロと同じように、人々はイエスを殺してしまった自分たちの過ちに気づかされるまでになったのです。 その時のペトロの言葉が、「悔い改めなさい。 イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。 罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられるものなのです。」と語ったのでした。 賜物として聖霊を受けるという約束がもうすでに用意され、その約束に従って神の業が起こされる。 私たち人間の業を用いてでも神の業を起こしてくださる。 「主が招いてくださる者ならだれにでも」です。 そこに、神の民の群れは起こされたとルカは証言しているのです。 このペトロの言葉を受け入れバプテスマを受け、その日に三千人ほどは仲間に加わったと言います。 教会という群れは、人の業によってできあがったものではありません。 神のみ心があって、約束が語られ、聖霊が賜物として注がれ、人間の業が用いられ、救われるべくして集められた私たちによって造り上げられた存在なのです。 「聖霊が降る」とは、ルカも、ヨハネもその表現は異なりますが、復活されたイエスに出会う、神の約束の賜物が注がれる、私たち人間が応えていく、そこに神の業が起こされるということなのではないでしょうか。 その神の業の有様は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と言います。 そのために注がれる「聖霊」という賜物を求めて止まない、私たちの「祈り、信仰、礼拝、悔い改め、恵みの感謝」を指すのでしょう。
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