秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「起きなさいと言われるイエス」 ルカによる福音書7章11~17節 

2022-06-26

 聖書箇所の冒頭に「それから間もなく」とあります。 カファルナウムでローマの百人隊長に重んじられていた部下が病気で死にかかっていた際に、その部下が病気から元気になったというイエスの癒しの業が引き起こされた直後、ナインという城壁に囲まれた町での出来事です。 その町から外に向かって出て行く葬儀の列の一行と、反対に町の中に入ってくるイエスの弟子たちと群衆の一行が交差するのです。 葬儀の列の先頭は、「一人息子を亡くしたやもめ」であった。 早くして夫を亡くし、続いて今一人息子を失って悲しみに暮れるひとりの女性でした。 「町の人が大勢そばに付き添っていた」と、葬儀によって母親を慰めようとしているのです。 町の中に入って行こうとするイエスを先頭とする列の一行が、母親の涙を止めるだけでなく、当時の「泣き女」に象徴されるような嘆きの儀礼で飾るような葬儀にストップをかけるのです。 「主はこの母親を見て、憐れに思い」とあります。 イエスではなく「主」という称号は「復活されたイエスの称号」です。 「わたしたちの主」という当時のキリスト者の最も簡潔な信仰告白の言葉です。 「憐れに思われた」という言葉は、主であるイエスだけに用いられている「はらわたのそこから愛する憐れみ」という言葉です。 イエスが同情という一般的な感情を越えて、神のご愛を示されたということです。 人間にとってどうすることもできない冷徹な「死」を前にして、イエスは「はらわたに痛みを憶えるほどの神の憐れみ」を示し、この母親に近づき、「もう泣かなくともよい」と語りかけられたのです。 死体に触れてはならないという当時の律法を越えて、イエスは「棺に手を触れられた。 するとその葬儀の列は立ち止まった。」と言うのです。 驚くべきはその直後の、「若者よ、あなたに言う。 起きなさい。」という語りかけの言葉です。 「起きなさい」とは、神が死人の中から復活させる時に用いる言葉です。 「よみがえりの主」が、神の御心に突き動かされて神のご愛を表された瞬間でした。 「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」と言います。 生きている者だけの町の中から、墓に向かって町の外に運び出されていた「棺」が、思いがけず復活の主と出会ったのです。 神の激しいご愛が主イエスを通して目に見えるものとなったのです。 諦めていた「死」から解放される道があること、神ご自身の固い決意により道が切り開かれ、備えられた神の国があることを示すために、その「棺」にイエスは手を触れたのです。 死んだ者に「起きなさい」と命じることのできるお方がおられることが示されたのです。 イエスはその一人息子を生き返らせただけでなく、「その母親にお返しになった。」 人の「死」の支配から、母親と一人息子の小さな家庭を解放させたのです。 「わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39) 私たちの側の状態に関係なく、父なる神の憐れみにより、突然の神との出会いにより、神の国に導かれ引き戻されるのです。 私たちが通らなければならない道を、私たちの初穂として歩んでくださった主イエスを仰がなければなりません。 そのイエスを遣わしてくださった父なる神のご愛に賛美の礼拝をささげなければなりません。 イエスの「死」によって、かつて天地創造の際には備えられていたはずの「生」を取り戻すことが示されたのです。 このイエスを通して示された神のご愛の証人となることも、私たちにしか語ることのできない証言を語ることもできるのです。 よみがえりの主イエスは「起きなさい」と呼びかけ、「この神のご愛をなぜ受け取らないのかと」嘆いて涙しておられるのです。 

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「神を喜ぶ、神が喜ぶ恵みの世界」 ルカによる福音書18章9~14節

2022-06-19

 イエスの譬えに、ふたりの「祈り」の姿が記されています。 ひとりは、「ファリサイ派の人」です。 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」の代表でしょう。 その祈りは、「ほかの人のようになっていないこと」を感謝するのです。 奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、罪人と呼ばれている者のような「ほかの人」でないことを喜んでいるのです。 そして、「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、神の前に胸を張るのです。 もうひとりは「徴税人」です。 「徴税人のような者」と揶揄されるぐらいに罪人の代表と見なされている人でしょう。 その祈りは、「遠くに立って、目を天に上げようとせず、胸を打ちながら、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈る」姿であったと言います。 「遠くに立って」とは、神殿に近寄ることのできなかった人目を忍ぶ人であったのでしょう。 「目を天に上げようとせず」とは、神を直視できない、神に顔を合わせることのできない人を示しているのでしょう。 「胸を打ちながら」とは、言葉で表現できない苦しみを表す凄まじい感情の現れでしょう。 そして、「罪人の私を憐れんでください」と自らを罪人と言い、頼るべきものがなく祈るしかないと懇願している人の姿です。 この二人の祈る姿を通して、イエスは「父なる神に義とされる」ということを示されるのです。 「神に義とされる」とは、道徳的な正しさを語っているのではありません。 すべての人は、神との正しい関係をもつことが約束として赦されている。 神がご自身の民として私たちを扱ってくださる、私たちが神を神として礼拝し、賛美している関係を言うのです。 イエスは、自分が正しいと自分の義に生きていると確信し自負していた者が神に義とされなかった。 自分が正しい人にふさわしくないと思い込んでいた者が神に義とされたと言うのです。 ルカは他の箇所でも、バプテスマのヨハネが授けるバプテスマを、「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人でさえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた。 しかし、ファリサイ派の人々は、彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」(ルカ7:29-30)と言います。 ここで用いられている「御心」とは、神の「固い思い切った決断、苦渋の選択」という意味合いが強い言葉なのです。 神の救いの「御心」こそ、壮絶な苦渋の決断そのものです。 わが子イエスに私たちと同じようなからだを背負わせ、すべての罪人を救い上げるために十字架に架けて、自ら永遠の裁きにかける決意をされたではありませんか。 そこまで苦しみ抜かれ、愛し抜かれた神の決断である「御心」を、律法に従って神の御心に従っていると確信するファリサイ派の人は、そのようなものは要らない、自分には不要であると拒んだとイエスは言うのです。 一方、「罪人のわたしを憐れんでください。」と祈るしかないと藁をもすがる思いで祈る徴税人は立ち直らされ、救いの喜びを分かち合うまでになっていった。 罪人の彼らを造り変え、立ち直らせた原動力はこの「神の御心」、苦渋の決断です。 私たちの側の振る舞いや祈りや信仰生活の結果でもありません。 神が私たちを捨て去らず、苦渋の決断をもって臨んでくださったからこそです。 この決断を受け取って、ご自身のもとに戻って来ようとする人の姿が、どれほど神の喜びであるだろうかと思わされます。 私たちが神に愛されていることを知る以上に、神こそが私たちを愛してくださっていることを仰ぐことです。 神を私たちが喜ぶ以上に、神が私たちを喜んでくださっている恵みの世界を喜ぶことです。 かつて神が「良し」として祝福された安息の世界に生きていることこそ、「神に義とされる」という神と私たちとの正しい関係なのでしょう。

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「主に祈られた私たちの祈り」 ルカによる福音書23章31~34節 

2022-06-12

 イエスが十字架に架けられる週の木曜日の夜、イエスは弟子たちと最後の晩餐を共にとられ、祈るためにオリーブ山に向かわれたのです。 その深夜、裏切ったユダに指示された兵士たちにイエスは捕らえられ、裁かれ、処刑されていきます。 その間、イエスは愛する弟子たちに向けて、「あなたがたはわたしを見捨てて逃げ出すだろう」と予告するのです。 弟子たちはそんなことはあるはずがないと主張します。 その中心人物であったペトロに、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とイエスは言うのです。 「小麦のようにふるいにかける」とは収穫の時の選別作業です。 倉に納めるべき小麦と、焼き捨てられる雑穀に振り分けられるということでしょうか。 あなたがたすべてがこのわたしを裏切るという出来事は、神のもとからあなたがたを振るい落そうと願っているサタンの願いから出てくることである。 その思いが神に聴き入れられたとしても、神が赦されたご計画の中にある出来事であるはずである。 神はサタンの願いを聞き入れられた以上に、このわたしの願いを聞き入れてくださったと、イエスはペトロに言うのです。 このイエスの父なる神への願いこそ、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」という「祈り」です。 これを聞いたペトロは猛然とイエスに反論し、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」と、自分の固い決意と覚悟を表明するのです。 これに応えてイエスは人間の決意と覚悟の虚しさを、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と語るのです。 ペトロは決して臆病な者ではなく、イエスが捕らえられた際には剣をもって相手に立ち向かい、また危険を冒してまでもイエスの姿を大祭司の庭に入るまでに追いかけるのです。 しかし、ついに「あなたもイエスの仲間ではないか」という一声に、「わたしは知らない。 仲間ではない。 言うことが分からない。」と、ペトロはイエスが予告されたとおり三度否定するのです。 その時、「イエスは振り向いて、ペトロを見つめられた」と記されています。 ペトロはこのイエスの眼差しに、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」という言葉と、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」というイエスの言葉を思い起こすのです。 ペトロは「外に出て激しく泣いた」と言います。 泣くことしかできなくなったペトロの「沈黙の祈り」の時でしょう。 イエスはペトロに、「信仰がなくならないように」と祈られたのです。 ペトロが祈り求めたからイエスが答えて祈られたのではなく、ペトロの信仰がたとえもろくて壊れやすいものであったとしても、ほんのわずかなものであったとしても、ペトロには信仰があると言っている。 その信仰がなくならないように、もうすでに祈ったと言うのです。 「振り向いてペトロを見つめた眼差し」こそ、このイエスのとりなしの祈りの立ち姿です。 ペトロは、ありのままの姿で泣くしかなかった。 それでも、イエスの前に立つことが今赦されていることに気づいたのです。 すべての弟子たちに入り込んできたサタンの思惑を、「イエスのとりなしの祈り」が凌駕したのです。 祈ることさえ、求めることさえ失ってしまった「沈黙の祈り」は、イエスの「とりなしの祈り」に支えられて再び立ち上がるのです。 イエスはこの立ち上がりを確信して、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と新しい務めをすでに与えておられるのです。 イエスの「とりなしの祈り」に支えられたペトロたち、私たちの消えてなくなるような信仰のうえにご自身のからだをつくり上げると言われたのです。

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「神の国を受け継ぐからだ」 コリントの信徒への手紙一15章42~53節 

2022-06-05

 パウロは種蒔きと収穫という日常の業を用いて、「種が蒔かれて死んで、そのからだが朽ち果てた後に、それぞれ穀物の別のからだをもって生かされているではないか。」 そのことを、「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。 神は、御心のままに、一つ一つの種に、それぞれの命に体をお与えになります。」と、自然の命の体の「死」と霊の命の体の「生」と捉えているのです。 穀物という「別のからだ」を新たに創造して与えるということを、種粒という「初めの自然の命の体の創造」に対して、終わりの日の「最後の霊の命の体の創造」と言うのです。 「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」と、「神の初めの創造」と「神の最後の新しい創造」を語るのです。 しかし、それには、順序がある。 「最初に、自然の命の体があり、次いで霊の命の体があるのです。」と言うのです。 この世界には、それぞれの命にふさわしいからだが神によって与えられています。 「生まれながらの自然の体」です。 しかし、「霊の命の体」とは、生まれながらの人間に自然と備わっているものではない。 特別な賜物である聖霊が神によって注がれて、それを私たちが受け取って内に宿すもの、神の国に属するものです。 天地創造の際には、神の息が吹き入れられて備えられて宿していたものを、いつしか失い手放してしまったものを取り戻した。 その「霊の命の体」を最初に体験した人間がキリストでした。 イエスがバプテスマを受けるシーンを考えてみてください。 大勢の群衆に紛れてバプテスマを受け、祈っておられたイエスに、「目に見える姿で聖霊が鳩のように降った。」 その聖霊を受け取ったイエスに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声が、天から聞こえた。」と言うのです。 死を味わって復活されたイエスは、間違いなく「からだ」をもったお方でした。 そのままのお姿で天に挙げられ、同じ姿でまたおいでになると神は約束されたのです。 イエスの生涯も、復活も、昇天も、再臨もすべて人間としての「からだ」をもったイエスに起こされる、神の御心の中にある「聖霊」の業です。 私たちは、この復活されたイエスに出会い、聖霊の業によってこのイエスに結ばれて生きるようになるのです。 パウロはこのイエスを、「神の賜物である聖霊を降されて、人間の初穂として最後に創造された最後の人アダム」と言い、「霊なるキリストとなって新しい命を与える霊となられた」と言うのです。 この命を与える霊こそ、自分のうちに生きている「霊なるキリスト」、これに結び付けられて生かされているというのがパウロの信仰なのです。 「朽ちないものとなる、輝かしいものとなる、力強いものとなる」とは、「死」に縛られている命を解放して新たな「からだ」を与え直すという聖霊の業なのです。 それは、「神の国を受け継ぐため」です。 「すべての者の身に起こる」ことです。 「今とは異なる状態に変えられます。」 それも、「たちまち、一瞬のうちに」です。 「この朽ちるべきものが朽ちないものを着る、この死ぬべきものが死なないものを着るだけで、今のからだをもってでも、この世の現実を生きていくことができるようになる。 その保証として、聖霊が与えられ神の「最後の創造の業」は始まっているのです。 私たちが授けられている命を表現する「からだ」は、聖霊という神の約束の賜物が注がれて、苦しみを背負ってでも、悲しみを引き受けてでも生きることができるようになる。 「最後の神の創造の業」のゆえに、希望を持つことができるようになるのです。 むしろ、私たちの味わう苦しみや悲しみ、不安や思い煩いこそ、私たちの中に聖霊が宿っている証しなのではないでしょうか。

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「神の約束としての賜物」 使徒言行録2章37~47節 

2022-05-29

 「聖霊が降る、受ける」とは、私たちにとってどういう意味のある出来事なのでしょうか。また、「聖霊」とは、いったい何者なのでしょうか。 ルカはこの出来事を、福音書の続編として「使徒言行録」に客観的に詳しく記しています。 ヨハネによる福音書はこのルカとは異なり「聖霊が降る」出来事を、「弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:19-23)と端的に記しています。 かつてイエスが「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。 あなたがたのところに戻ってくる。」と約束してくださっていたように、復活されたイエスは絶望し意気消沈していた弟子たちの真ん中に現れて、聖霊を注いでくださったのです。 一方、ルカは、聖霊が弟子たちの上に降った有様を詳しく語っています。 「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに話し出した。 復活したイエスが度々現れていたにも関わらず信じて受け入れることのできなかった弟子たちが、イエスを賛美し、復活されたことを大胆に証言するまでに、新しい人間として生まれ変えられた。」と、聖霊の業として証言しているのです。 その中心人物であったペトロの説教は、新しい霊の目が開かれたとしか言いようがありません。 その変貌ぶりは目を見張るばかりで、イエスによくたしなめられていたペトロ、イエスが復活されたと告げられ「たわ言のように思われた」と信じることができなかったペトロとはまるで別人です。 そのペトロの言葉に、人々は心を打たれて、「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねるまでになったと言います。 ペトロと同じように、人々はイエスを殺してしまった自分たちの過ちに気づかされるまでになったのです。 その時のペトロの言葉が、「悔い改めなさい。 イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。 罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられるものなのです。」と語ったのでした。 賜物として聖霊を受けるという約束がもうすでに用意され、その約束に従って神の業が起こされる。 私たち人間の業を用いてでも神の業を起こしてくださる。 「主が招いてくださる者ならだれにでも」です。 そこに、神の民の群れは起こされたとルカは証言しているのです。 このペトロの言葉を受け入れバプテスマを受け、その日に三千人ほどは仲間に加わったと言います。 教会という群れは、人の業によってできあがったものではありません。 神のみ心があって、約束が語られ、聖霊が賜物として注がれ、人間の業が用いられ、救われるべくして集められた私たちによって造り上げられた存在なのです。 「聖霊が降る」とは、ルカも、ヨハネもその表現は異なりますが、復活されたイエスに出会う、神の約束の賜物が注がれる、私たち人間が応えていく、そこに神の業が起こされるということなのではないでしょうか。 その神の業の有様は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と言います。 そのために注がれる「聖霊」という賜物を求めて止まない、私たちの「祈り、信仰、礼拝、悔い改め、恵みの感謝」を指すのでしょう。

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「主の鍛錬が結ぶ実」 ヘブライ人への手紙12章1~13節 

2022-05-22

 時代背景には外からの脅威がありました。 ローマ皇帝による迫害、殉教の恐れです。 内からの脅威も多大なものがありました。 言われなき中傷や誹謗により耐えかねて信仰を捨てていく「背教」の恐れです。 この手紙の著者は、「イエス・キリストを見つめながら、忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と人々を励ますのです。 「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。 そうでないと押し流されてしまいます。」と、「漂流」の危険性と恐れを語ります。 気がつかない間に少しずつ潮に押し流されていく、ずるずると引きずり込まれてしまう「漂流」には、しっかりとした「錨」を流れの底に降ろさねばならないと勧めるのです。 
 手紙の著者は、古い時代には神が預言者たちによって語られた。 しかし、新しい時代には神が御子イエスによって語られたと言います。 「神が語る」ということは、何も分かっていない私たちのために、神ご自身が強い意志をもって隠されていたものを明らかにしてくださったということです。 主導権は神にあります。 事を準備して起こすのは神の意志、私たちに対する神のご愛と憐みです。 それに私たちが応えて初めて事が始まるのです。 古い時代には、神の民であるなら当然そうなるであろうと記された律法によって、私たちの罪深さや妥協することのできない神の裁きを知らされたのです。 新しい時代には、イエス・キリストの十字架の神の裁きによって、神の恵みが注がれ、私たちの罪が赦されたことに気づかされたのです。 イエスご自身が、イエスの目撃者たちの証言が、神ご自身自らが、霊的な賜物によってずっと説明し続けておられるのです。 だから、手紙の著者は、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」と勧めるのです。 「ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれたイエスのお姿を忘れないでほしい。 そのお姿は、すべての重荷や絡みつく罪から私たちを解放するためであった。 もともとあった神との交わり、約束されていた祝福と恵みを取り戻すためであった。 そのことを強く心に留めておかなければならない。 それとともに、父なる神のみ心を果たす為だけに自らを置かれたことにより、よみがえらされ、天に挙げられ、父なる神の右にお座りになったイエスのお姿をも心に留めておかなければならない。」と言うのです。 しかし、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまでに抵抗したことはありません。」と言います。 イエスが人間として耐え忍んでいた戦いは、私たちが戦うようなものではなく、神の厳粛な裁きを受けるということ、神のもとから引き離そうとするこの世のものすごい力との血を流すまでの壮絶な戦いに耐え忍んでおられたということです。 そのお方が、繰り返し私たちの方を振り返り、とりなしてくださっているのです。 そこに慰めと励ましがあり、「もはやあなたがたは血を流すほどの苦しみは不要になった。 だから、そのお方を見つめて立ち上がりなさい」という慰めの響きに感じるのです。 最後に、「主の鍛錬を軽んじてはならない。」 それは、「わたしたちの益となるため、御自分の神聖にあずからせるため、義という平和に満ちた実を結ばせるため」と言います。 この「鍛錬」こそ、私たちを創り命を与えてくださった神を、信頼することができなくなるような所においてでも、気力を失い疲れ果ててしまうような所においてでも、開拓者として歩み通して神のみ心を果たし終え、まったく新しい命によみがえらされて、神のもとに迎えられたイエスを仰ぎながら歩んでいく、その歩みそのものを言うのではないでしょうか。 「信仰」はそのための走り抜く力です。 走り抜く希望です。 

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「エチオピアの高官のバプテスマ」 使徒言行録8章26~40節 

2022-05-15

 大きな成果を上げた最初の頃のキリスト者の群れの宣教の働きの中に、ルカは小さな福音宣教の出来事をわざわざ書き留めています。 「たったひとりにたったひとりが用いられて、神の福音のみ言葉が告げ知らされて、再びそれぞれのところに遣わされていく」小さな出来事です。 サマリアの地で思いがけず宣教の働きの大成功を収めたフィリポに、「主の天使」が、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け。」と命じるのです。 人々が温かく接してくれるサマリアの地を離れて、だれも通る人がいないような荒れ地を通って、破壊された廃墟の町に行けと命じられているのです。 フィリポは自分の思い描くものとは異なるものを神から迫られて、自分を振るい立たせ動き出さねばならない「神のみ言葉」を聞かされたのでした。 フィリポは何も言わず「すぐ出かけた」と言います。 そこで、エチオピアの女王の全財産の管理をしている一人の宦官に出会ったのです。 「宦官」とは、位の高い女性の貴族に仕える、男性としての機能を去勢され、専ら女性だけに仕える奴隷です。 家族や社会とのつながりをもつことも許されない存在です。 ユダヤ社会からみれば、遠い国の異邦人でありかつ宦官であったというだけで、受け入れられない存在でした。 その宦官が礼拝のためにエルサレムに来て国へ帰る途中であった。 馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたと言います。 手に入れることのできないような馬車や預言書を手にしていたにも拘わらず、なぜこのような生涯を選んでしまったのかと自分の生涯に疑問をもっていた。 このような身分であったとしても神の救いがもたらされると、イザヤ書56章に書いてあることを見つけ出し、自分の救いを求めていたのでしょう。 エルサレムで礼拝をささげ、長い道のりをかけて帰って行こうとする時でさえ、救いの確信を得ようとイザヤ書を朗読していたのです。 その箇所こそ、イエス・キリストの十字架の預言でした。 神の声が再びフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じるのです。 すべて神の備え、神の業としか言いようがありません。 み言葉を伝える側が、伝えられる側に近づいて行って主にある交わりを築けと神は命じておられるのです。 そこから、フィリポと宦官との「読んでいることがお分かりになりますか。」、「どうぞ教えてください。」という対話が始まります。 フィリポは聖書の箇所から説き起こし、イエスについての福音を告げ知らせたと言います。 宦官は、「屠り場に引かれて行った羊、毛を刈る者の前で黙している小羊」の姿を、自分の残酷な運命に重ねて、「傷ものとされたこの私を助け出し、救い出してくださるお方は、一体だれなのですか」とフィリポに尋ねたのです。 宦官はフィリポの説き明かしにうなずいて、神と自分がイエス・キリストによって直接結ばれたことを悟って、バプテスマを求めたのでしょう。 福音の言葉を携える者のなすべきことは、「追いかけて、語りかけて、主にある交わりを築き、説き明かす」ことでした。 フィリポは、散らされて行ったサマリアにおいてでも、だれも行かないようなガザに向かう寂しい道にでも、神の霊に導かれるままに「立ち上がり、追いかけた」のです。 そこに、ひとりがひとりと出会い、奇跡が起こされたのです。 神のみ心のままに委ねてみる。 一歩、踏み出してみる。 そうすると、神のみ心を知るようになるし、味わうことにもなるのです。 水の中から新しくつくり変えられて出て来た二人は、それぞれの場所に遣わされて行ったのでした。 神は小さな存在を追いかけて、見つめて追いかけられておられるのです。 人間の計画や行動や手順などには無頓着です。 神はみ心のまま、自由自在です。 

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「イエスのバプテスマ」 マタイによる福音書3章13~17節

2022-05-08

 ここに出てくるバプテスマのヨハネが語る「バプテスマ」とは、どのようなものであったのでしょうか。 当時のユダヤ社会でも、水に入り罪を清めることは行われていたようです。 しかし、バプテスマのヨハネは、「毎日水に入り、汚れた罪のからだを清めようとしても、人間の中に入り込んでいる罪を洗い流すことはできない。 終わりの日の裁きの時が近づいている。 悔い改めよ。 天の国は近づいた。」と語り、人々に悔い改めを迫ったのです。 人々に罪の告白をさせ、ヨルダン川で一回限りの「バプテスマ」を授けていたのです。 そのヨハネのバプテスマを受けるために、「エルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネのもとに来た。」と言うのです。 そのなかにエルサレム神殿を司るサドカイ派の人々や、律法の戒めを説き人々に聖書の教えを伝えるファリサイ派の人々が入って来ているのを見て、「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と、誤って人々を導いているユダヤの指導者たちに激しく辛辣な口調で悔い改めを迫るのでした。 そして、「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後からくる方は、わたしより優れておられる。 わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。 その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」とも言うのでした。 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られた。」とあります。 なぜ神の子であり、ヨハネに告白すべき罪をもたないイエスがひざまずいて、ヨハネからバプテスマを受けなければならなかったのか疑問です。 この「来られた」という言葉が「補佐する、助けにくる」という意味合いがあるとするなら、突然、イエスがヨハネのもとに助けに来られたということになります。 そのヨハネは戸惑います。 「ヨハネは、それを思い留まらせようとした」と言います。 激しく悔い改めを迫ったその口調でイエスに向き合うことなどできるはずはありません。 「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。」というのが精いっぱいの戸惑いの言葉であったのです。 その時のイエスの言葉が、「今は止めないでほしい。 正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」という言葉でした。 イエスが「このまま、バプテスマを受けさせてほしい」と言われているのです。 イエスはご自身の罪の告白も、罪の赦しの願いも一切語られていません。 むしろ、「私たちにとって、これが正しいことなのだ。 ふさわしいことなのだ」と言われているのです。 「これが神のみ心なのだ。 神のみ心が果たされることが正しいことなのだ。 ヨハネ、あなたが納得するかどうかは問題ではない。 あなたが願っていることが正しいことでもない。 あなたが手出しすることもできないことだ。」と言わんばかりです。 ヨハネは納得できないまま、「イエスの言われるとおりにした。」と言います。 自分の思い願う正しさを捨てて、謎を残したまま神に委ねる時に初めて「信じる」という出来事が起こされます。 信じて従う時に初めて、神のみ心の正しさを味わいます。 「わたしを水の中に沈めよ。 替わって受ける神の裁きによって、あなたがたはわたしに結ばれることになる。 わたしとともに自分の正しさを捨てて、委ねて生きていきなさい。」と、ご自身の十字架の死と復活の出来事を予見されたのではないでしょうか。 

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「主と同じ姿」 コリントの信徒への手紙二3章18節 

2022-05-01

 パウロは「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」がいると言います。 「肉に従って歩む者」とは、罪の中にある私たち人間の姿ということになるでしょう。 パウロは「罪の奴隷」とまで言っています。 「霊に従って歩む者」とは、神の息を吹き込まれて創られた天地創造の際の人間の姿ということになるでしょうか。 パウロは「神の子ども」とまで言っています。 「奴隷」と「子ども」の違いは、帰ってくるところがある、たとえ過ちを起こしたとしても赦される、捨て去られることがないということではないでしょうか。 パウロは、この「罪の奴隷」の姿と「神の子ども」の姿を自分自身の中に合わせ持つと嘆いています。 私たちの生涯を振り返ってみますと、「バプテスマ」を受けて信仰生活が始まりました。 パウロは、「わたしたちは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 バプテスマを受けてキリストに結ばれたわたしたちは皆、キリストを着ているからです。 ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。 わたしたちは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28)と言います。 パウロが嘆いていたように相反する姿をもつ私たちであったとしても、それでも神の子であるという確信をパウロのようにもっているでしょうか。 バプテスマは、私たちの信仰生活の最終目標ではなく始まりです。 「神の子ども」は成長するのです。 パウロは、「わたしたちは皆、主と同じ姿に造りかえられていきます。」と言います。 自力で、神の前に正しい者とすることのできない私たちが、ただ信仰により、無条件の神の恵みにより、それでも神の子として生かされる者となっていきますと言うのです。 それも「皆」です。 例外なくです。 この恵みを信仰によって受け取っていく者にはすべて、「主イエスと同じ姿」に造りかえられていく。 それは、「キリスト・イエスを死者の中から復活させた方の霊の働きによる。」 私たちはその途上にある。 神のものとなるその救いの始まりにあると言うのです。 そして、「鏡のように主の栄光を映し出しながら、主と同じ姿に造りかえられていきます。」と言います。 神の栄光に直接触れることができるようになる。 そればかりか、この神の栄光を映し出す姿に変えられていくとまで言うのです。 パウロは、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:8)と告白します。 パウロの地上の生涯の最終到達地点は、「神の国を引き継ぐこと」、「神の国の命を得るための死者の中からの復活」でした。 キリスト・イエスの新しい霊なる体には、十字架上での釘や槍の傷跡があるはずです。 イエスと同じ体に造りかえられる私たちにも、キリストの姿が映し出されるはずです。 私たちの輝かしい姿にではなく、私たちの惨めな姿、欠けや貧しさや弱さや過ちのひとつひとつの傷跡に、キリストの恵みが注がれて映し出されていくのでしょう。 私たちの内に宿るキリストの霊によって、どうしようもない私たちが造りかえられて生かされるようになる。 曲りなりにもキリスト・イエスに従って行こうとする私たちに授けられた短い生涯に、神のみ心が果たされていくのでしょう。 これが、私たちの地上の生涯の最終ゴールではないでしょうか。 キリストはこのような私たちをも用いて、今もなおこの地上で働いておられるのです。 キリストに従う者によって、神のみ心がこの地上に果たされること、そのために神のみ言葉が語られ、聞かれること、これが私たちに託された務めではないでしょうか。 私たちに託された時には限りがあります。 その時を、神の栄光のために用いられていることに気づきましょう。

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「絶望の中で見出す希望」 ヨハネの黙示録12章7~12節

2022-04-24

 ヨハネの黙示録は不思議な書です。 人間に見えていないことを、幻や象徴や譬えなどを用いて解明しようとする黙示文学の形を取っています。 なかなか理解しがたい特異な文章となっていますが、書かれた時代背景など考えながら読み進めていくと見えてくるものがあります。 ローマ皇帝に対する礼拝の強制という厳しい抑圧の中で、身の危険や死の危険を感じながら生きて行かなければならない人たちに向けて、隠されている真実を「イエス・キリストの黙示」として明らかにしています。 筆舌に尽くしがたい迫害の中でも、勇気と希望を与えようとしています。 「天で戦いが起こった」、「ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだ」と言います。 「ミカエル」とは、イスラエルを守る天の使い、一方、「竜」とは「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」と言われています。 神と、神に敵対し人間を惑わす悪の霊との戦いが起こったということでしょう。 時代背景から、「竜」とはローマ皇帝であると容易に想像できます。 人間を惑わし、破綻させ、神のもとから離れさせようとする霊なる力に天は戦いを挑んだと言うのです。 その戦いの結末は、「竜とその使いたちは勝てなかった。 もはや天には彼らの居場所がなくなった。 竜とその使いたちは天から地上に投げ落とされた。 今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。 小羊の血と証しの言葉で打ち勝った。」と言うのです。 「小羊の血と証しの言葉」とは、イエス・キリストの十字架の死、十字架にまで従ったイエスのお姿とみ言葉を暗示します。 全人類を惑わす者は地上に投げ出された。 天ではもうすでに打ち破られて、その居場所さえなくなった。 彼らは、「残された時が少ないのを知って、怒りに燃えて地上に降って行った。」と言うのです。 イエス・キリストの十字架の死と復活によって、悪魔とかサタンとか呼ばれるものは敗れ去り、地上に投げ落とされた敗者に過ぎない。 勝敗の決した後の本当の「希望」、「復活することになっている希望」が、天では既に定められている。 彼らが投げ落とされた地上もまた、神ご自身が創造された世界である。 だから、地上で起こる目に見える一時の出来事に目を奪われることのないようにと「黙示録」は語っているのです。 キリストの復活がなければ、私たちの復活はないのです。 キリストは、私たちの「初穂」として、代表として「復活」してくださり、その「復活の希望」を保証してくださっているのです。 私たちの罪の赦しや平安や喜びに留まることなく、最後の敵である「死」を乗り越えて、神のもとに引き渡されたどり着く。 神のみ心の最終目的は、この地上のすべての権威や支配がキリストの足もとに降り、そのまま父なる神のもとに引き渡されるという壮大な救いの業なのです。 「終わりの日に現わされるように準備されている救い、もうすでに勝敗が決して定められている本当の希望を受けるために、神の力により信仰によって今の地上の世界、地上の時を私たちは守られている」と言うのです。 ですから、現状がどうであれ、「絶望」の中にでさえ「希望」があります。 何もなくても、何かを奪われても私たちは「豊か」です。 これらの「希望」も「豊かさ」も、私たちの信仰や努力のご褒美ではありません。 神ご自身のみ心の最終目的のためです。 神がすべてにおいてすべてになられるためです。 このような確かなことが、この世にあるでしょうか。 今の現実の姿から、その真の「希望」を見出そうとしても見出せないでしょう。 このお方の確かなみ心から眺め直すなら、すでに定められている、約束されている「希望」から、私たちの絶望に思える今現在を見つめ直すなら、新しい力、揺るがない希望が湧いてこないでしょうか。 私たちは目を上げて、天からくる助けを仰ぐのです。

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