秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「信仰はどこにあるのか」 ルカによる福音書8章22~25節 

2023-07-23

 新約聖書のみ言葉は、私たち人間による説明でも解釈でも、歴史書でもイエスの伝記でもありません。 イエスとともに歩んだ弟子たちのイエス・キリストに対する信仰による証言です。 人間の知性や経験や能力によって自然の脅威を克服していこうとする人間の姿と、その自然をも支配しうる神のみ業がイエス・キリストという人間の中に隠され、秘められている。 そのことを、弟子たちが自らの情けない姿と言動を敢えて書き記し、遺し、伝えているのです。 マルコによる福音書によれば、大群衆の前で多くの神の国の教えを語られ、弟子たちには神の国の秘密を打ち明けその疲れたままの状態でイエスは「その日の夕方、湖の向こう岸に渡ろう」と言われたのです。 弟子たちはイエスに従って船に乗り込み、その船旅の途上で「突風、荒波」に見舞われたのです。 ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネもガリラヤ湖の漁師でした。 この湖には、山から吹き下ろしてくる突風が起こることも熟知していたはずです。 熟知した漁師たちが慌てふためくほどの猛威により、小さな船は波をかぶって水浸しになり沈みかけた。 思ったように船を操ることができなくなった状態、嵐を恐れて振り回されている弟子たちの姿が記されています。 そこで、困り果てた弟子たちが、船の艫の方で眠り込んでいたイエスを捜し、「先生、先生、おぼれそうです。」 マルコによれば、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか。」とまで激しい憤りをぶつけるのです。 イエスは、ガリラヤ湖の向こう岸に向けて船出して、安心されたのか疲れ果てておられたのか「眠っておられた」と言います。 イエスもまた疲労もし、休息を必要ともし、睡魔に襲われるひとりの人間でした。 しかし、親の懐で信頼し切って幼子のように眠っておられ、父なる神に信頼する「安らぎと憩い」に包まれた父なる神との「固い結びつき」を憶えるのです。 弟子たちの叫びと訴えに起こされたイエスは「起き上がって、風と荒波をお叱りになると、湖は静まって凪になった」と言います。 その直後に語られたイエスの言葉が「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」であったと言います。 同時に、「命じれば風も波も従うこのお方はどなたなのだろう。」と弟子たちは恐れ驚いたと言います。 
 この出来事は、次の宣教地「向こう岸」に向かう途上の船の中の出来事です。 イエスの穏やかに寝ておられた姿と、弟子たちの慌てふためく姿が対比されています。 ガリラヤ湖に慣れ親しんだ弟子たちでさえも自分たちの手に負えないものだと分かり始めた時、イエスに対する乱暴な叫びに至ります。 しかし、イエスの宣教の働きのために従って行こうとした弟子たちでした。 イエスに従わなければ出会うことのなかった嵐でした。 そこで初めて、弟子たちの叫びに応えて起き上がり、嵐に向かって「静まれ」とお叱りになったイエスの姿に、次第に弟子たちの心の目が開かれるのです。 イエスがお叱りになった相手は、愛する弟子たちを不安と恐れに陥れ、自由に操ろうとするこの世のすべての力です。 そのうえで、「あなたがたの信仰はどこにあるのか。 なぜ怖がるのか。 まだ、信じないのか。」と言われたのです。 イエスと共にイエスが目指すところに進む船の中にいる者たち、群衆と同じように聞いていただけで相も変わらない状態から一歩踏み出した者たち、自分の知恵や経験や能力だけでは抗うことのできないものに出くわした体験を味わった者たちです。 突風や波風はそのきっかけに過ぎません。 弟子たちは「このお方はどなただろう」と悟り知り言い表そうとした信仰の始まりを、自分たちの恥ずかしい姿、聴くに堪えない乱暴な叫びを通して証言しているのです。 イエスの中に神の力が秘められていることに気づかされ、埋もれてかすんでしまっていた弟子たちの信仰が呼び覚まされたのです。

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「永遠の命という賜物」 詩編90編3~12節

2023-07-16

 詩編90編の詩は、「祈り」、「神の人モーセの詩」です。 イスラエルの民の偉大な指導者であったモーセの生涯そのものが祈り、賛美し、歌うのです。 モーセの波乱万丈の生涯を思い起こしてみてください。 イスラエルの民として生まれたモーセは生まれてすぐ、ナイル川に流される。 これ以上イスラエル人が増えないように、生まれたイスラエル人の男の子をナイル川に流すようエジプトの王が命じたのです。 この悲しい出来事に出会うひとりの赤ちゃんを、神はよりによってエジプトの王女に拾わせる。 イスラエル人でありながらエジプトの王宮で大事に育てられ成長していく。 成長したモーセは、同胞であるイスラエルの人々の苦しい奴隷の姿を見て憤り、エジプト人を殺してしまう。 ついには、イスラエル人の解放に立ち上がるが失敗し、落胆のうちに荒れ野に逃れ羊を飼う生活へとその身を寄せるのです。 ところが、神は一度選び出したモーセに、再び荒れ野からエジプトへ戻るようにと迫るのです。 イスラエルの民の救いのご計画の担い手としてモーセを立たせる。 悪戦苦闘の末、神の壮大なご計画を果たす者として先頭に立たせ、イスラエルの大群衆をエジプトの国から導き出すのです。 その後、エジプトの反撃、自然の脅威に悩まされながら、また、エジプトから連れ出してきた多くのイスラエルの民の反抗や不信に悩まされながら、40年もの間荒れ野をさまようのです。 苦労のうえに苦労を重ね、ついに約束の地カナンを目の前にするところにまでやってきた。 すると、ネボ山という山に登れとモーセは神に告げられる。 「あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。 イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。 それゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこには入ることはできない。」(申命記32:49-52)と告げられるのです。 体力、気力とも満ちあふれていたにもかかわらず、40年もの間目指してきたその地に一歩も足を踏み入れることが許されず、労苦を共にした人々に別れ一人モーセはその生涯を終えるのです。 人の目には波乱万丈の悲劇的ななんと痛ましい生涯となったそのモーセが、自身の生涯を振り返り、祈り、賛美する歌が詩編90編の詩です。 私たち造られた者の存在の限界を「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」と塵に返ることへの憂いとともに、自らの弱さや貧しさにより犯してしまった過ちのゆえに、消え失せる者であると告白するのです。 しかしモーセは、「わたしのもとへ帰れ」と言われる主なる神の声を慰めとして聞きます。 自らの生涯が肉体の死のもとにあるのではなく、神の永遠のみ腕の中にあると告白するのです。 同じように、「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません。」 同時に、「人は草のように移ろいます。」と、神の永遠と人間のはかなさを歌うのです。 私たちでは究め難い「時の流れ」に「神の時」が入り込む。 モーセは、その波乱万丈の生涯の中で何度も体験した「永遠の今」が、目の前を過ぎ去っていく「時の流れ」の中に隠されている。 労苦と災いに過ぎないと思える「人の今」の中に、「神の時」が結びつくならば、力と知恵と励ましと慰めが与えられる。 悲劇的な生涯の中に見る無限の意義をもつ「永遠の時」としてくださる。 「生涯の日を正しく数えるように、知恵ある心を得ることができるように、あなたの憤りをも知ることができますように。」と祈るのです。 イエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神がお遣わしになったイエスご自身を知ること」と語り、モーセは、「肉体の死は、神のもとへ帰る喜びの日であると、はかない「人の今」は「永遠の今」と結びつき新しく造り変えられると喜ぶのです。 「永遠の今」は「人の今」に起こり、「永遠の命」は「今の賜物」なのです。

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「キリストの言われる軛」 マタイによる福音書11章25~30節

2023-07-09

 冒頭に「そのとき」とありますが、並行記事であるルカによる福音書によりますと、福音宣教のためにイエスが送り出した72人の弟子たちが喜んで帰って来た時(ルカ10:21-22)とあります。 弟子たちが口々に、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と喜びの声を挙げている一方で、「数多くの奇跡が行われた町々が悔い改めなかったので、イエスが叱り始められた。」とも記されています。 この宣教活動は失敗であったのかもしれませんが、イエスは父なる神に「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と感謝と喜びの祈りをささげるのです。 イエスはその地上での生涯を「父なる神の子」として、親子の交わりの中に終始生きられたお方でした。 イエスは、「わたしを見たものは、父を見たのだ。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。」(ヨハネ14:7,8)とまで、父なる神との一体感を証言されています。 何をほめたたえているのかと言えば、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 父よ、これは御心に適うことでした。」と確信をもって祈るのです。 「知恵ある者や賢い者」とは、イスラエルの社会を牛耳っているユダヤ教の指導者たちのことです。 「幼子のような者」とは、今、イエスによって宣教の業に遣わされ、その計り知れない力と知恵に驚き、イエスの前で喜んでいる愛する弟子たちのことです。 片田舎の漁師であった人たち、取税人や安息日に礼拝を守れない社会的に疎まれていた人たち、小さな存在、無きに等しい人たちのことです。 「これらのこと」とは、イエスが盛んに語ってこられた隠された神の国の奥義、福音の恵みという父なる神のみ心のことです。 イエスはこの恵みの奥義が、「知恵ある者や賢い者」には隠されて、この「幼子のような者」に示された。 社会的に疎また力の弱い人たち、無きに等しい人たちという存在を通して、神の救いの業が起こされた。 この驚くべきことを感謝し、賛美の祈りをイエスはささげているのです。 「父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。 父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」と祈りを続けます。 父を他にしてだれもその子を知る者はいない。 み子によらないでは、だれも父なる神を知ることはできない。 すべてのことは、この世において父から子に委ねられていると親子の姿を語りつつ、神の子であるイエスを通して、神のご愛、神のご真実を受け取っていっている。 そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」と呼びかけるのです。 イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。 『わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学びなさい。」(9:12-13)と言われていることを忘れてはなりません。 「知恵ある者、賢い者」に象徴される「正しい人」、「丈夫な人」ではなく、「罪人と呼ばれている人」、「病人」を招くために、律法の戒めによる「いけにえ」ではなく「憐れみ」を求めるのであるとイエスは言うのです。 「律法の軛、人間の正しさの軛」を捨てて、イエスと共に歩む労苦と不安と重荷を背負わされたすべての人のために、憐れみをもって「わたしの軛」を負いなさいと招いておられるのではないでしょうか。 「幼子のような者たち」が喜んで感謝しているように、「恵みの軛」を受け取りなさい、「柔和で謙遜な者」という神の平安のうちに憩う存在となるようにと願うイエスの祈りなのです。 

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「今を生かされる」 フィリピの信徒への手紙3章1~11節

2023-07-02

 「あの犬ども、よこしまな働き手たち、切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」に、「注意しなさい、気をつけなさい、警戒しなさい」と、パウロはフィリピの教会の人たちに語りかけます。 罵声を浴びせ強く非難しているかのような激しい言葉から、緊迫した教会の事態を感じます。 パウロの対決姿勢は激しく鮮明です。 直接の相手はユダヤ人キリスト者たちでしょう。 最初の頃のキリスト者は、「キリストの復活」の事実によってユダヤ教徒の中から立ち上がって生まれてきたのです。 ユダヤ教の安息日を、キリストの復活を喜び賛美するために週の初めの日曜日に変えて礼拝する群れとして生まれてきたのです。 このキリストの十字架と復活の恵みを薄めて、慣れ親しんだユダヤ教の色合いを滲ませる「しるし」や「行い」を重んじようとするユダヤ人キリスト者たちに、異邦人伝道者であるパウロは「かつて」の自分の姿に決別し、過去を辿ってきて気づかされた新しい「今」の姿を明らかに示すのです。 罪の赦しや救いは、罪人自身の体に直接刻まれる切り傷である「割礼」によって果たされるのでも、罪人自身の生活に求められる行いによって果たされるのでもない。 自ら聖なる者になることのできない存在であり、自分のしるしや行いによって自ら聖なる者となることができると思うことこそ自分を誇りとするものである。 キリストがこの地上で果たしてくださった働き、恵みを空しくするものである。 このことをユダヤ人キリスト者たちに向けて、そして「かつて」のパウロ自身に向けても激しく語るのです。 「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身、ヘブライ人の中のヘブライ人である。 律法に関しても著名な律法学者のもとで学んだ者で、その行いの熱心さにおいては非のうちどころのない者である。」と、生い立ち、家柄、学識、履歴、指導者、模範者として自らを誇っていたと自ら告発するのです。 そのうえでパウロは7節で、「しかし」、「かつて、自分にとって有利であったと思っていたこれらのことを、ある時から損失と見なすように、キリストのゆえになった。」と過去形で語ります。 8節以降においては、「キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。 キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」と現在形で語るのです。 自らを厳しく律するパウロは、神の求められる要求がどれほど凄まじいものであるかを知らされていたのでしょう。 神の求める聖なる者とは程遠い者であると気づかされていたのでしょう。 そのパウロがダマスコへの途上で死んでよみがえられたキリストに出会った。 今までプラスと思っていたものがすべてマイナスと思うまでに逆転が起こされた。 「かつて」の自分との決別がキリストによって起こされた。 サウロという「かつて」の自分が「今」のパウロに造り変えられて生かされていると語るのです。 私たちは、この地上の旅の途上にあります。 途上にありながらも、キリストの死と復活に与かりキリストの体の一部として結ばれるのです。 肉体の死を越えて、このキリストとの結びつきは続くのです。 キリストが再びこの世に現れる時には、キリストと共に新しい体となって新しい神の国に現れ出ることになるのです。 パウロは、「キリストとその復活の力とを知り、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と語っています。 「かつて」の自分を見つめ、そこから断絶し、「今」の自分はキリストに絶えず捉え続けられている。 同時に、この自分もまたキリストを捉え続けようとしている。」と語り、「キリストに憶えられる、捉えられている、知られている」という恵みと同時に、「自らがキリストを憶える、捉える、知る」ことの大切さを「キリストと共に生きる喜び」の中に見出しているのです.

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「光と暗闇の関係」 マタイによる福音書2章13~23節

2023-06-25

 星の輝きだけを頼りに、はるばるエルサレムにまで尋ね求めやってきた「占星術の学者たち」が、やはりその通りであったと確かめることができた、その幼子を直に拝することができたという二重の喜びをもって自分たちの国へ帰って行った直後のことです。 喜びの時、良い知らせを受けた直後のことです。 主の天使がヨセフに現れ、「起きて、その子供とその母親を連れて、エジプトに逃げなさい。 そこで、私が告げるまで、そこに留まっていなさい。」と告げられたとマタイは言います。 その理由は、「ユダヤの領主であったヘロデが、この子を捜し出して殺そうとしている」からだと言うのです。 自分に取って替わる「新しいユダヤ人の王がお生まれになった」と「占星術の学者たち」が捜し始めていることを聞きつけ心穏やかでなかったヘロデが、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」と言うのです。 そのヘロデが死ぬと、今度もまた同じように「イスラエルの地に戻りなさい。」と言われた。 イスラエルに戻ったものの、ヘロデの後を継いだアルケラオが悪政をもって支配していたので、夢でのお告げに従い「ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に身を隠して目立たぬよう移り住んだ」と、右往左往させられるヨセフとマリアと幼子イエスの小さな家族の姿を、マタイはわざわざ書き加えているのです。 そして、これらの出来事はすべて、聖書の預言通りの出来事であったとその都度付け加えているのです。 人間の世界の片隅で起こった小さな歴史に、これから始まる神の大きな救いの歴史が始まった、その明と暗の二つの歴史の絡み合った出来事であったとマタイは告白するのです。 権力欲に富み、「新しいユダヤの王」という存在が現れると聞いて、直ちにその幼子を捜し出し殺そうとするヘロデの姿。 ヘロデの自分勝手な都合により故郷を捨てなくてはならなくなったヨセフとマリアの姿。 どちらも私たち人間の姿を映し出しているのでしょう。 そのような小さな家族の上に神のみ言葉が臨んだのです。 「エジプトへ逃げ、わたしが告げるまで、そこに留まっていなさい。」 ヘロデの死後には、「イスラエルに戻りなさい。」 この時のイスラエルの厳しい状況から、「ガリラヤ地方に移り住みなさい。」と神のみ言葉に翻弄されたのです。 しかし、それらの出来事はすべて、神のみ心を果たすためであったと言うのです。 世界の歴史を塗り替えるほどの出来事がその身に起こされるイエスは、その使命を果たす為に幼子の時から守られている。 世界の片隅で起こされている小さな家族の歴史に、神の救いの大きな歴史の始まりが絡み合って始まっている。 ヨセフもマリアも幼子イエスも、またその周辺においても神の歴史が始まっている。 この一連の小さな家族の逃亡の歩みこそ、神の導きと神の約束のみ言葉に守られて歩む体験を人間として味わうものであったのです。 「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40:8)と記されています。 人間の歴史の虚しさ、底浅さを知れば知るほど、神の歴史の広さ、深さ、高さ、大きさを知ることになる。 自分の罪深さを知れば知るほど、神のご愛の赦しと救いの尊さと恵みを見出すことになる。 マタイも、人間の歴史の暗の現実に目を閉ざさずあるがままに見て、同時に、人間の歴史を越えて変わらず働いている生きた神の救いの明の歴史があることを見つけ出したのです。 小さな出来事にこそ、神の歴史は静かに始まるのです。 その呼びかけが、小さな存在を用いてみ心を果たしてくださるのです。 イエスは、暗闇に負ける姿を取られ、暗闇をも赦し、解放しようと、暗闇を越えた父なる神にすべて委ねられたのです。 光は今もって暗闇の中で輝き続けている。 暗闇は光に勝たなかった、暗闇は光を理解しなかったのです。 

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「時代を背負われる神」 イザヤ書46章3~13節

2023-06-18

 第二イザヤと呼ばれる人物が記したイザヤ書40章から55章までの聖書箇所こそ、「唯一の神」であると指し示すことにおいて、旧約聖書の中で最高峰の箇所であると言われています。 バビロニアによって滅ぼされたイスラエルの民が、遠いバビロニアの都バビロンにまで移送され、苦しめられていたそのような時に、「ペルシャ王キュロスにより、今度はバビロニアが滅亡することになる。 その結果、イスラエルの民は解放され、救い出されることになる。」 今まで苦しんできたイスラエルの民にとって、大きな慰めに満ちた神の救いの約束の言葉、解放の希望の言葉が力強く呼びかけられたのです。 イザヤは「残りの者よ」、「背く者よ」、「心のかたくなな者よ」、「恵みの業から遠く離れている者よ」と呼びかけます。 栄光に栄光を重ね、人の目には成功を収めているかのような人たちではなく、自分たちの国土も神殿も失って打ちのめされて、異国の地に敗残兵、囚人として移送された人たちに呼びかけられているのです。 これから良い方向へと変化していくような事実もなければ、期待をもたらす見通しすらない、暗闇の中をさまよい続けている人たちに神は呼びかけているのです。 
 「わたしをおいて神はいない。 救いを与える神は、わたしのほかにはない。 わたしは自分にかけて誓う。 わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は取り消されない。 恵みの御業と力はわたしにある。」と言われ、今バビロンにある偶像の神々と比較させるのです。 ペルシャにバビロンが征服されたなら、動くことのできない置物である偶像は担いで運ばなければならない重荷となる「人に担がれる神」である。 しかし、私たち人間を造った神は、人間を造りかえることもできる神である。 イスラエルの民を「担い、背負い、持ち運び、救い出す神である。」 生まれた時から老いる日まで、全責任を負って「人を担ぐ神」である。 イザヤは、「天を創造し、地を形づくり、造り上げて、固く据えられた方。」(45:18)であるとはっきり語るのです。 創世記1章2章の「天地創造」の信仰告白は、このバビロン捕囚の民によって、バビロン捕囚の時代に起こされたと言われるゆえんです。 自分たちを創造した神を忘れ、見失ってしまった私たち人間に、「唯一の神、天地創造の神、人を担ぐ神」として呼びかけるのです。 「背く者よ」、神の支配のもとに初めからあったこと、私たち人間の歴史が神の支配のもとに置かれていたことを思い起こせ。 「わたしが神であり、わたしのような者はいない。」 「心のかたくなな者よ」、「恵みの業から遠く離れている者よ」と、心を頑なに閉ざし、無理解のまま、独りよがりのままの私たち人間を、それでも立ち帰る者につくり変えようと招いておられるのです。 「わたしの計画に従う者」を遠い国から呼ぶ。 「わたしの望むことをすべて実行する者」を起こす。 そして、必ず実現させ、完成させる。 それも、「近く成し遂げる。 もはや遠くない。 遅れることなく、救いをもたらす。」と言っておられるのです。 この呼び起こされる者を、「残りの者、呼びかけに応えて来る者」とイザヤは言います。 これまでの自分の愚かさ、弱さに気づかされた者、自分のいた世界こそが暗闇であったと初めて気づかされた者ということでしょう。 私たちがしがみつき握り締めようとするのではなく、逆に、「背く者、心のかたくなな者、恵みの業から遠く離れている者」である私たち人間を、じっと背負われて捉えておられるお方がいるという喜びを心より賛美したい。 その喜びの根拠は、神の方が私たちを捉えて離さないというその「確かさ」にあるのです。 偶像礼拝から、バビロン捕囚から、古い自分から解放されて新しく造り変えられていくのです。 この救いの恵みに身を委ねてみることです。 

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「とどまらないイエスの孤独な祈り」 ルカによる福音書22章39~46節

2023-06-11

 弟子たちとの最後の食事を終えた夜が更けたころ、イエスと弟子たちが「いつものように、いつも行かれるオリーブ山」に行かれたと言うのです。 「これがあなたがたのために与えられるわたしのからだである。 これはあなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約である。」と言われて、これから起こる十字架の出来事を語られた直後です。 同時に、「12弟子の中のユダもペトロもこれからご自身を裏切ることになる。」とまで預言された直後での「イエスの祈りの姿」です。 イエスがいつものオリーブ山で父なる神に最後の祈りをささげる前に、ついてきた弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言われたのです。 そしてご自身は、「石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて、『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』」と祈られたのです。 このイエスの祈りの姿と祈りの言葉をマタイやマルコではもっと赤裸々に、「わたしは死ぬばかりに悲しい。 できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 この杯を、わたしから取りのけてください。」と、神の前にひとり立たされて泣かざるを得ない人間を代表しているかのように弱々しく祈る姿を映し出すのです。 そのイエスの祈りの姿を憚ることなく弟子たちに見せ、その祈りの言葉を弟子たちに聞かせているかのように描くのです。 「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と弟子たちに語るぐらい、この世の霊はあなたがたをイエスご自身に対する不信と絶望へと引きずり込もうとしている。 祈りによって神の霊が働き、神との交わりが保たれなければ、この世の霊との戦いに敗れてしまう。 だから、「誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言われ、ご自身の赤裸々な祈りの姿を見せ、祈りの言葉を直接聴かせることを望まれたのではないでしょうか。 
 この「杯」とは、神の裁きという人間の犯した誤った歩みに対する神の怒りでしょう。 肉体の苦しみに止まらず、神に見捨てられ神の裁きに身を委ねる魂の苦しみです。 私たち人間には本当の苦しみを知ることのできない神の裁きの宣告を受ける苦しみです。 イエスご自身に突き付けられたままの「杯」、父なる神の沈黙のままの「杯」です。 自らの力によって立ち上がろうとする思い上がった信仰から、神ご自身がその御心をもってこの身に立ち上がってくださいと祈り願う信仰へと整えられていく備えの「杯」です。 一方で、すべての神の民の救いのためにそうせざるを得ない、共に苦しんでおられる父なる神の痛みの「杯」なのです。 「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈ることができたその時こそ、神のみ心を悟り知り得た時でしょう。 ルカは、マタイとマルコとは異なり、裏切ったユダが知り尽くしている「いつものように行く、いつもの場所であるオリーブ山で」、イエスはその杯の時を静かに待っていた。 祈り終え戻ってきた時に、「弟子たちは悲しみの果てに眠り込んでいた。」 「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。」と言うのです。 弟子たちもまた不安と恐れに苦しんで疲れて眠りに落ちていたのでしょう。 ご自身の十字架の後、地上の務めを委ねていくことになる弟子たちにイエスは憐れんで、最後に「祈ること」を教えられた。 イエスですら避けることのできないこの世の霊との戦いであった。 解決や糸口も与えられず、すべての人に裏切られ、孤独に祈り続け、誰からも理解もされない中、自らの杯に赴くことができたのは父なる神の力添えがあったからだとルカは語るのです。 「石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて祈られた」、「自分の務めである杯をじっと待っておられた」イエスの祈りの姿をルカは語るのです。

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「神の言葉を食べ、語りなさい」 エゼキエル書2章8節~3章3節

2023-06-04

 私たちと同じからだを背負ってこの世の生涯を送られた主イエスは、この世の霊の誘惑に遭われた際に、挑みかかってきたこの世の霊に「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と書いてあると答えられました。 イスラエルの40年もの間荒れ野をさまよった出来事を記した申命記のみ言葉(8:3)を引用し、私たち人間は苦難の中の歩みであるからこそ、神の口から出るみ言葉に生かされて生きる存在であることを答えられたのでした。 旧約聖書の時代に選ばれて召された預言者エゼキエルに主なる神が語られたみ言葉に触れて、主なる神のみ心に迫りたいと願います。 詩編119編では、「神のみ言葉」を、命を得させるもの、希望を与えるもの、歩む道を照らす光、あるがままに主なる神のみ心を悟り知らせるものと賛美しています。 ヨハネ福音書では、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)と、イエス・キリストそのものが神のみ言葉であると信仰告白しています。 「神のみ言葉」はその解釈が大切なのではない。 み言葉の命に触れ、そのみ言葉に立って生かされ、そのみ言葉に立ち続けること、み言葉そのものであるイエス・キリストを仰いで共に生きることが大切なのです。 エゼキエルは紀元前597年にユダの王とともに、イスラエルからバビロンの地へ敗戦国の囚人としてすべてを剥奪され、強制的に移住させられた人物です。 このバビロン捕囚が起こされた5年後です。 突然、エゼキエルは祭司の立場から今度は預言者として立ち上げさせられる直接の呼びかけを受けた箇所が、今朝の聖書箇所です。 主なる神が、「自分の足で立て。 わたしはあなたに命じる。」と語り始めたとき、「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。 そして、語りかける者にわたしは耳を傾けさせられた。」と言います。 主なる神のご用のために立ち上がる者を、ご自身が霊とみ言葉を授け整えられたということです。 「わたしがあなたに語ることを聞きなさい。 あなたは反逆の家のように背いてはならない。」と、イスラエルの民の今の状態をエゼキエルに神は伝えるのです。 そして、「あなたは、口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。 あなたの目の前にあるものを食べなさい。」と言われる。 「あなたの目の前にあるもの」とは、差し伸べられている手にある巻物、表にも裏にも文字が示されていた巻物です。 イスラエルの民の哀しみと呻きと嘆きの詰まったものです。 巻物を食べるだけでなく、「行ってイスラエルの家に語りなさい。」と言われるのです。 エゼキエルは食べ始めるどころか、噛み砕いて、飲み込み、それを胃袋に入れる。 ありのままの現実をそのまま受け入れ、腹に落とすまでに食べ尽せと言われる。 「恥知らずで、強情な人々のもとに遣わされて」、主なる神への信頼と希望を失わないようにとエゼキエルに語らせるのです。 「神のみ言葉」こそ、呼びかけられた者に新しい創造をもたらすもの、神の強い意志と願いとご愛が込められたものです。 それを腹の底に落ちるまでに食べ尽し味わい知ることを、主なる神はエゼキエルに求められたのです。 呼びかけられた者は、聞く者が聞き入れようが拒もうが語らなければならない。 立ち上げられた者は、神のみ言葉の預言者であることを証ししなければならないのです。 一人一人の預言者を通して、「神のみ言葉」はこの秋田の地まで語り継がれてきたのです。 たとえ神を認めることができないような悲惨な状況にあったとしても、この世の人たちと一緒になって「神はどこにおられるのか」と共鳴するのではなく、父なる神のご愛と力が、主イエスによってこの世に覆われている、神の恵みのもとにあると語り続けるのです。 

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「育てられていく神の民」 マルコによる福音書4章13~20節

2023-05-28

 ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎え、弟子たち「一同が一つとなって集まっているところ」に、「聖霊が一人一人の上にとどまった」。 すると弟子たちが「聖霊に満たされ、霊が語らせるままにいろいろな言葉をそれぞれが語り出した」と言います。 「宣教する教会の誕生日」、イエスの福音の宣教開始の号砲が神の働きによって鳴り響いた出来事ではなかったかと思わされるのです。 弟子たちは何も分かっていないこの世に向かって、イエス・キリストを自分自身の言葉によって宣べ伝える力と勇気、ふさわしい言葉が与えられて直ちに働き始めた。 イエスが処刑されたエルサレムの町の中、宗教的にも精神的にも伝統的にもユダヤの支配の中、武力的にも政治的にもローマの支配のもとにある中、そのような社会に向けて恐れることなく、人がまるで変ったかのように語り始めた。 何の計画も準備もなく、組織も体制もなく、資金も援助もなく、まとまった教えや理解があったわけでもなく、聖霊が一人一人に降ったその瞬間から「宣教する群れ」となっていった。 弟子たちの思いや都合や状況に全く関係なく、神の業が始まった。 人間の計画や決断ではなく、神ご自身がイエス・キリストの福音を告げ知らせようとしているとしか言いようがないのです。 宣教するのは、神ご自身です。 その為に神は聖霊を注いで、力や知恵を与え、ご自身のみ心を私たち神の民を用いて果たされていくのです。 神によって「強いられた恵み」でしょう。 ペンテコステこそ、「神の民として育てられていく教会」、「新たに造り変えられて一つにされていく教会」の始まりではなかったかと思うのです。 ある日突然注がれた「聖霊」に、イエスが譬えで語られた「蒔かれた種」が私には重なってくるのです。 私たちは「蒔かれた種」を受け取って、その隠されている神のみ言葉の中にある神の命の鼓動を、実感として果たして受け取っているでしょうか。 受け取ったなら、新しい命の芽生えという祝福の約束を見出しているでしょうか。 もし、この隠されていたみ言葉の中にある神の命の鼓動を、自分自身の命の鼓動として受け取り、晒されている厳しい現実の世に生きていくことができるとするなら、どんなに幸いなことかと思わされるのです。 
 蒔かれた場所によって、その種が奪い去られたり、根が張らなかったり、邪魔されて実がならなかったりする。 あるいは、豊かに実がなり神の祝福に満たされる。 「蒔かれた種」には、必ず実が成る、成長する命が秘められている。 神のみ言葉には、人を造り変え育て上げる命がみなぎっている。 その種は、あらゆるところに蒔かれている。 神の言葉は、弟子たちにも、周りの人々にも、私たちにも、この世のあらゆる人たちのところにすでに語られている。 神のみ言葉は、私たちひとりひとりに受け入れられるのを待っているのです。 ペンテコステの日に、イエスの弟子たちは何の用意もなく突然受け取って新しく「種を蒔く人」となると、弟子たちの祝福の約束を「蒔かれた種の譬え」ではなく、「種を蒔く人の譬え」として語っておられるのです。 更にイエスは、「種を蒔く人の譬え」に、「ともし火の譬え」と「秤の譬え」を付け加えています。 ともし火は、周りを照らすためではないか。 隠れているものであらわにならないものはない。 神の言葉であるイエスの福音は密かに語られるものではない。 だから、「聞く耳のある者は聞きなさい。 何を聞いているかに注意しなさい。」と言います。 福音の言葉も、私たちのものさしで小さく聞くなら小さく与えられる。 しかし、大きな期待をもって祈り願うなら、考えもつかない実りにあずかることになる。 神の秤に沿うよう、注がれる聖霊を求め祈りましょう。 「種を蒔く人」の祝福が、私たちには恵みとして約束されているのです。

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「感謝、愛されている者として」 イザヤ書 41章 10節

2023-05-21

「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。 たじろぐな、わたしはあなたの神。 勢いを与えてあなたを助
  け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」
 これは、預言者イザヤによる神の民イスラエルへの解放と救いの言葉です。 彼らは選ばれた民としての使命を果たすことができませんでした。 なぜなら彼らは律法を誤解し行いによって義とされることを求め、神に従うことができなかったからです。
 発達心理学の礎を築いたエリク・H・エリクソンは「心理社会的発達理論」を提唱し、自我の発達を8段階に区分しました。 その中で、1歳から3歳までの3段階の基本となる発達段階に「基本的信頼」が人生において重要な役割を果たすと考えました。 「基本的信頼」とは、「自分が生まれてきたこの世界は安全で信じていい。自分は居ていい」という自信を与える信頼感です。 特に1歳半までにそれが培われるというのです。 エリクソンによると、この基本的信頼が得られなかった子どもは、その後の発達段階になんらかの支障をきたすと語っています。 エリクソン的に言えば、イスラエルの民に欠けていたのはその「基本的信頼」だったのかも知れません。 彼らは、互いに愛し愛されるために与えられた律法を誤解し、それを守らなければ自分たちは神様に愛されないと思い込んでしまったのです。 それはとても悲しいことで、子どもが親に対して「良い子でないと、愛してもらえない」と思い込むのと一緒です。 しかし、実際には神は彼らを深く愛し、導き守る神であったことをこのイザヤ書のみならず、いたるところで聖書は証ししています。
 教会が世に伝え、分かち合うのは、「神の愛」です。 そして、その愛が見える形となって来られたのがイエス・キリストです。 ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)と証言しました。 だからこそ大切なことは、その愛に信頼すること、私たちを行いによってではなく、恵みによって救ってくださる神の愛によって生きることなのです。 私たちは、旧約のイスラエルの民のように愛されるため義とされるために生きるのではなく、既に赦され愛されている者として恵みによって歩むのです。
 北海道に犯罪や非行に走った子どもたちを受け入れている「家庭学校」という施設があります。 そこで昔、谷昌恒という先生がおられ、子どもたちに「私たちの心の中には相反する二つの思いがあります。 一つは、『よし、やってみよう!』と思う心と、そんな気持ちに水を差すような『どうせやっても無駄だ』と思う心です。 しかし、イエスさまは、私たちが『もうだめだ。どうしようもない』と考えてしまっている状況の先におられるのだ。 だからあきらめないで、チャレンジしてみよう」と、希望を与え、励ましていたといいます。 先ほど「基本的信頼が得られなかった子どもは、その後の発達段階になんらかの支障をきたす」とありましたが、エリクソンは、たとえそうであったとしても少年・青年期、そして大人になってもそれを補うに余りある人間関係が与えられることによって、人は「基本的信頼」を取り戻せると補足しています。
 私たちもまた、人を救いに導き、積極的な生き方へと導く神の愛を信じ伝え、既に愛されている者として歩んでまいりたいものです。
                      (大富キリスト教会 小田衞牧師)

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