「祝福をあふれるほど持って」 ローマの信徒への手紙15章22~33節
この手紙の冒頭の挨拶でパウロは、どのような思いでローマの教会の人たちに書き送ったのかふたつのことを語っています。 ひとつは、「イエス・キリストの御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒となりました。」と言い、ユダヤ人ではない異邦人への「宣教の働き」が自分自身の使命であると言います。 もうひとつは、「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」とローマの教会への訪問を強く願っていると言い、「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。 互いに持っている信仰によって励まし合いたいのです。」と「交わりの働き」を語るのです。 今朝の聖書箇所では、この手紙の結びとして、これまでローマに「何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。」と言います。 異邦人への福音を告げ知らせる使命から、先ず、ローマ帝国の東半分のイエス・キリストの名がまだ知らされていない所でその働きを果たさなければならなかった。 騒乱や反対運動に妨げられて、ローマとは反対方向にあるところでの宣教に集中しなければならなかった。 その「宣教の働き」を終えて、今、アカイア州の州都コリントにいる。 「今は、もうこの地方に働き場所がない。」 もはや宣教の余地がない。 今度は、ローマ帝国の西半分、その西の端イスパニアに向けて「宣教の働き」を起こしていくというパウロの晩年の宣教ビジョンが語られたのでした。 その大きな働きのために、すでに教会が起こされ建てられているロ-マの教会の支援をパウロは大いに期待して、「あなたがたと共にいる喜びを味わいたい。 キリストの祝福をあふれるほど持って分かち合いたい、励まし合いたい。」と「交わりの働き」を願うのです。 ローマは、今パウロがいるコリントからは目と鼻の先です。 「しかし今は、聖なる者たちに仕えるために」、ローマと反対方向にある「エルサレムに行きます」とパウロは言うのです。 パウロは、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者たちを尊敬の念をもって、「聖なる者たち」と表現しています。 ここまで養われてきた異邦人キリスト者たちの恵みの源を、エルサレムの教会に見ているのです。 これから始めようとしているローマ帝国の西半分の宣教を始める前に、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者と異邦人教会の異邦人キリスト者との連帯をしっかりと結び付けたかったのです。 その証しとして、異邦人キリスト者たちが献げたものをエルサレム教会から注がれた祝福の実として届けたいと、献金の奉仕の業を通してイエス・キリストにあって一つにされることを願ったのです。 しかし、パウロには不安があった。 パウロをキリスト教に回心した裏切者として、エルサレムにいるユダヤ教徒たちは命を狙っていたのです。 また、エルサレム教会の代表的なユダヤ人キリスト者たちは、律法を軽んじ信仰だけによって救われるとするパウロの信仰に強い反感を持っていたのです。 果たして喜んで献金を受け取ってくれるだろうか。 そこで、パウロは共に祈ることをローマの教会の人たちに求めます。 「どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。」と言います。 自分の為に、また自分と一緒に苦しんで戦ってほしいと、まだ行ったことのないローマの教会の人たちにとりなしの祈りを求めるのです。 パウロでさえです。 自分自身の命が守られるよう、献金の奉仕の業がユダヤ人キリスト者たちに受け入れられるよう、イスパニアに向けての新しい「宣教の働き」が起こされるようにという「祈り」、ユダヤ人と異邦人からなるひとつのキリストのからだが築き上げられるようにという「祈り」、「宣教の働き」にも、「交わりの働き」にも必要なる恵みを豊かに与えられて、神の民として一緒に用いられたいという「祈り」なのです。
[fblikesend]「神の働きを待つ」 使徒言行録18章1~11節
「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。」と言います。 16章と17章にあるフィリピ、テサロニケ、アテネでの宣教の後ということです。 アテネの地は、テサロニケの騒動によって追われてたどり着いた当初の宣教計画にはなかった所です。 哲学と芸術の伝統と文化の誇り高い、衰えていたとは言えギリシャ随一の都市です。 「いったいこの男は何を言いたいのだろうか」と興味本位で聞く聴衆がアテネでは多くいたわけですが、結局、パウロの宣教はアテネの人々にあざ笑われ、信仰に入った者もわずかしかいなかったと言います。 フィリピの教会も、テサロニケの教会も心配であったし、直前のアテネでの働きの落胆を引きずって、パウロは「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安だった」と言います。 コリントはローマ帝国の総督府が置かれたアカイア州の州都であり、二つの港をもつ貿易上の要衝で経済的に栄えた裕福な都市でした。 一方、贅沢と不品行にまみれた都市の光景を目の当たりにしたパウロは、恐れと不安の中にコリントへ入って来たのです。 そこでパウロは、「アキラとプリスキラのユダヤ人夫妻に出会った」と言います。 ユダヤ人をローマから追放するというローマ皇帝による命令が降ったことにより、最近コリントへ来ていた二人であったと言いますし、この二人がパウロのその後の宣教活動の協力者となったと言いますから、とても偶然とは思えません。 「テント造り」という職業が同じであったこともあり、パウロは直ちに住居と仕事という生活基盤がコリントで与えられ、「安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシャ人の説得に努めていた」と言います。 更に、フィリピやテサロニケで宣教の働きを共にしていたシラスとテモテが、パウロの宣教の働きのため献金を携えてやってきたのです。 それによりパウロは、「御言葉を語ることに専念できるようになった。 メシアはイエスであると力強く証しした」と言います。 しかし、会堂のユダヤ人たちは、異邦人であるギリシャ人たちと一緒に食事をとるパウロを、律法の戒めを汚す者、十字架に処刑されたようなナザレ人イエスが自分たちのメシアであると宣べ伝える馬鹿な者と口汚く罵るのです。 そこでパウロはきっぱりとユダヤ人たちの会堂と決別し、異邦人の方に行き、「ティティオ・ユスト」というギリシャ人の家に移った、そこは激しく言い争った会堂のすぐ隣であったと言います。 仕方なく立ち去ることを余儀なくされたこの「家の教会」で、思いがけない出来事が次々と起こされていくのです。 なんと会堂を司る「会堂長」が一家を挙げて、「家の教会」に加わってきた。 コリントの多くの人々がパウロの口から発する神のみ言葉を聴いて信じ、バプテスマを受けたと言うのです。 パウロは予期していなかった事実に、神の導きと周到な神の御心の確かさを感じたに違いないのです。 そのような時に神は幻の中で、「恐れるな。 語り続けよ。 黙っているな。」とパウロに呼びかけたのです。 「なぜなら、わたしがあなたと共にいる。 だから、あなたを襲って危害を加える者はいない。」と神は約束されたのです。 意気消沈して「宣教の働き」の意欲や自信を失いかけていたパウロにとって、この呼びかけはどのように聞こえたのでしょうか。 この神の励ましと慰めによって、パウロはよみがえったのです。 「わたしが呼び集め、用意しているわたしの民が大勢いる。」と言われた神の御心を、自分のものとすることができたのではないでしょうか。 私たちの務めは、神の選びの民を呼び覚ますことではなく、神のみ言葉を語り続けることです。 そこで起こされる神の救いの業、新しい出来事を待つことです。 イエス・キリストの十字架による救いは、もうすでに成し遂げられているのです。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」のです。
[fblikesend]「ガリラヤからの光と福音」 マルコによる福音書1章12~15節
ヨルダン川でイエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたのは、望みを失い「荒れ野」で漂う人々とともに歩むというイエスの決断でした。 父なる神がみ心に従おうとするそのイエスを喜び、神の子であると明らかに宣言されたのでした。 民衆や洗礼者ヨハネが期待したメシアとは、自分たちを悩ます者を滅ぼし、その支配から解放してくれる裁き主でした。 一向に立ち上がらないイエスに洗礼者ヨハネは、「来るべき方は、あなたでしょうか。」と疑い尋ねています。 このヨハネの疑いにイエスは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」と答え、栄光に輝くメシアではなく、貧しい人、弱い人、捕らわれ人、嘆いている人とともに歩む「苦難の僕」として歩むメシアを自らの姿であるとヨハネに示されたのです。 その洗礼者ヨハネが、領主ヘロデを批判し捕らえられたことをきっかけに、イエスは「ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え始めた」とマルコは言うのです。 ところが、神に託された福音を宣べ伝える前に、「霊によって荒れ野に送り出された。 40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」と言います。 聖書の言う「荒れ野」とは、試練の場です。 却って、神と対面し神からの呼びかけを聴く場です。 「40日間」という数字も、試練と苦難の時を示しています。 ノアの40日40夜の大洪水、エジプトから約束の地に向けて歩んだイスラエルの民の荒れ野の40年の歩みも、モーセの40日40夜のシナイ山での断食もすべてそうです。 「サタン」という存在も、神と人間の結びつきを十二分に知る者として度々聖書に登場します。 この「サタン」との戦いに、私たちもまた苦しみ悩むのです。 しかし、神との結びつきのない者、神の存在すら受け入れようとしない者にとっては、この神のもとから引き離そうとする「サタン」との戦いは起こらないはずです。 神のもとから離れてしまっていることに気づく者だけが味わう苦しみなのです。 他の福音書が詳しく記しているこの誘惑の内容は、「神の子なら、石をパンに変えることができるだろう。 高い所を飛び降りても、神が助けるだろう。 この世の王になれるだろう。」という、「苦難の僕」の姿を捨てて、「栄光の姿」をもってイエスを歩ませようとする巧妙な誘惑でした。 聖霊によるバプテスマを受け、神の子とせられ、聖霊に導かれこの世の戦いを体験されたイエスが、「ガリラヤに戻った」のではなく「ガリラヤへ行った」と言います。 ガリラヤのナザレというご自身の故郷という平穏な場所に戻ったのではない。 領主ヘロデがその権力の維持のためには投獄も処刑も辞さない危険な場所です。 ユダヤ教指導者たちがイエスを「律法を汚す者」として命を狙っている危険な時です。 イエスは神の国を宣べ伝える場所として、神殿とユダヤ教の体制に包まれた都エルサレムではなく、「異邦人のガリラヤ」へ赴いたのです。 領主ヘロデと対峙するためでも、ユダヤ教指導者たちを避けるためでもなく、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4:16-17)という預言が果たされるよう「異邦人のガリラヤに漂う人たち」に近づいて行かれたのです。 そこで語られた言葉が、「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」というみ言葉でした。 神が予め定めておられた時に、神の側からしか近づいてくることのできない、「恵み」としてしか与えられるものではない「神の国」に私たちが招かれた。 ご自身がおられるところに、向きを変えて戻ってきなさいと語っているのです。 私たちもまたイエスのおられるところ、ガリラヤに赴きイエスととともに歩むのです。
[fblikesend]「第二の天地創造」 マルコによる福音書1章1~11節
マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と、創世記の「初めに、神は天地を創造された。」という書き出しを意識して、新しい時が訪れたと書き始めています。 預言者が「死者を遣わして、道を備える。 整える。」と預言していた通り、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れた。」 いよいよ天地創造という大事業に匹敵する驚くべき神の救いの業が新しく始まろうとしていることが、短い「神の子イエス・キリストの福音の初め」という聖句に込められているのです。 その重要人物である洗礼者ヨハネは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と言います。 当時の遊牧民の姿、荒々しい野人のような姿で「荒れ野」に現れたと言います。 エルサレムの都の人々は長い衣を着て、戒めを守る清潔な生活を送っていたと言いますから、その姿とは程遠い姿です。 「荒れ野」とは、不毛なところ、見捨てられ、誰も顧みない所ということでしょう。 そこに「洗礼者ヨハネが、バプテスマを施す者、バプテスマを宣べ伝える者として、施す相手も宣べ伝える相手もいないようなところに現れた」とマルコは言うのです。 ヨハネはなぜ、そのような「荒れ野」で生き、預言者としての務めを果たそうとしたのでしょうか。 分かっていることは、人々が見向きもしない不毛の地、辺境の地に生きる生き方を自ら選び取っていることです。 エルサレムの都に住んで、神殿に仕え戒めを守ることだけに終始する人々とは異なる生き方を自ら選び取っていることです。 そしてヨハネと同じように、神殿の中では見えてこない、都では味わえない世界に生きていこうとする人々を、だれもいない「荒れ野」で待ち続けていたということです。 この「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていた」ヨハネの姿こそ、一国の王に対し怯むことなく神のみ言葉を語ることを貫き通した旧約聖書の預言者エリヤの姿です。 人々は、このヨハネの姿を預言者エリアの姿に重ね合わせていたのかもしれません。 「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた」と言うのです。 マルコはこのことを、「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」と表現します。 普通なら「バプテスマを施した、授けた」となるところを、「バプテスマを宣べ伝えた」と言うのです。 ヨハネが努力をして人々を集めたのでも、説得したのでもない。 神が、見向きもされなかった「荒れ野」に人々を呼び集め、その過ちに気づかせ、ヨハネのもとに来てありのままを告白させ、新しい歩みをしたいと願って訪れたすべての民に、ヨハネを通して「罪の赦し」があることをバプテスマを通して宣べ伝えさせた。 神の裁きの前に赦される「イエス・キリストの福音」が今、訪れようとしていることをヨハネが宣べ伝えたとマルコは語るのです。 「わたしより優れた方が、後から来られる。 わたしは水でバプテスマを授けたが、そのお方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」とヨハネが語ったその直後、「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でそのヨハネからバプテスマを受けられた。」とだけ語るのです。 すると、「天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降ってくるのをご覧になった。 あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者と言う声が、天から聞えた。」 イエスが「荒れ野」に出向いてくださって、数々の罪を悔いてヨハネからバプテスマを受けている群れに加わってくださった。 すると、わたしの愛する子と言う神の宣言が聖霊によって降ったと、バプテスマの意味を宣べ伝えたのです。 新しく聖霊によって生まれた神の子の誕生の出来事を、短く語っているのではないでしょうか。 イエスの水によるバプテスマが、救い主イエス・キリストの名による聖霊によるバプテスマへと変えられた瞬間ではないでしょうか。
[fblikesend]「時が満ちるに及んで」 エフェソの信徒への手紙1章3~10節
この手紙の差出人は、牢獄に捕らえられていたパウロです。 手紙の受取人は、このパウロの身に起きていることを心配し動揺している、パウロの福音宣教によって起こされた諸教会の人たちです。 この手紙は、「わたしたちの父である神は、ほめたたえられますように。」と、「神への賛美」によって書き始められています。 その理由としてパウロは、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくれた」からである。 「神は、わたしたちを愛して、聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになった」からであると、その賛美の理由を述べるのです。 神さまから注がれる天からの「霊的な祝福」と、神さまの「ご愛による選び」があったからこそ「神への賛美」を語るのです。 「神が愛する御子キリストによって与えてくださった輝かしい恵み」、「神の豊かな恵み」とパウロは表現しています。 「すべての知恵と理解を与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。」 「前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものであることに気づかされました」と告白している通りです。 パウロが盛んに「キリストにおいて」と語っている「キリストの出来事」を最初に知らされたのは、マリアとヨセフという小さな二人の存在に対してでした。 世界の片隅の出来事でした。 ふたりとも疑心暗鬼のまま、それでも神が語ることであるならと受け入れていったところにこの「キリストの出来事」は訪れたのでした。 その福音の知らせは、神殿に参ることすらできない羊飼いたち、神のもとから最も遠いと思われていた人々に届いたのでした。 マリアとヨセフがユダヤの儀式に従って、生まれたばかりの赤ちゃんイエスを携えて神殿にお参りした際に、神殿の年老いた預言者シメオンに出会うのです。 シメオンはその赤ちゃんを一目見て、幼子を抱き、神を讃えて「わたしはこの目であなたの救いを見た。 わたしは安らかにこの地上の生を終えることができる。」と幼子イエスの父と母に語るのです。 このシメオンの言葉に、不安と戸惑いに包まれていたマリアとヨセフはどれほど励まされ、神の業が自分たちの身に起ころうとしていることに気づかされたことでしょうか。 神の「秘められた計画」は、本当に世界の片隅の小さな一人の存在、それぞれの短い生と死、生き様を神はご自身の御心と計画に沿ってつなぎ合わせてくださるのです。 その当事者である一人一人の実体験によって、「神への賛美」がたとえそれが小さくとも、その驚きと喜びと感謝によって呼び起こされ、讃え続けられ、結び合わされていくのです。 「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、天にあるものも地にあるものもすべてのものがキリストのもとにひとつにまとめられるのです。」とパウロは言います。 一人一人に注がれるこの世にない「霊的な祝福」、前もって定めてくださる「神の愛による選び」は一人一人の救いのためだけでなく、ご自身が崇められるため、「神の秘められた計画」を果たされるためのものなのです。 そのために神は、「イエス・キリストにおいて、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようとお選びになった。 イエス・キリストによって、神の子にしようとお定めになった。」のです。 清くない者、汚れた者をそのままの姿で受け入れ、引き受け、神の御子イエス・キリストの流してくださった尊い血だけによって置き換えてくださるのです。 イエス・キリストは、私たちの小さな生涯に共に生きてくださっているのです。 私たちはこの地上に囚われることなく、神のお定めになっているところに向かって、神の国の希望と確信をもって、自分にしか背負うことのできない務めを背負って次に選ばれた者に神の「祝福」と「選び」を賛美でつないでいくのです。
[fblikesend]「恐れ、思い悩みとともに」 ルカによる福音書12章22~34節
イエスは、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と言います。 この直前の箇所で、「愚かな金持ちのたとえ」で、地上の富に対する執着、その貪欲さを戒めておられます。 明日命が取り上げられる者がそのことを知らず、「多くの蓄えができた。 大きな倉を建てた。 そこに穀物や財産をしまった。 これから先何年も生きていくだけの蓄えができた。 食べたり飲んだりして楽しもう。」と語る金持ちの愚かさを、イエスは「たとえ」によって語られたのです。 「命を与えてくださるのも、命を取り上げられるのも神である。 自分の為にいくら富を蓄えても、神の前に豊かになるものではない。 命のことで、体のことで思い悩むな。 ましてや、命や体を維持し支える手段に過ぎない食べること、着ることに思い悩むのは愚かなことである。」と言われたのです。 そして、「カラスのことを考えなさい。」と言われる。 カラスとは、当時の社会では汚らわしい鳥ということです。 「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。」汚らわしい存在とみられている鳥でさえ、神は養っておられる。 同じように、野の花も、「今日は野原にあって、明日には炉の中に投げ込まれるはかない存在であるものでさえ、栄華を極めたソロモン王の宮廷以上に神は着飾ってくださっている。 あなたがたはなおさらのことである。」とイエスは言われるのです。 確かにイエスは、「この世の人々が切に求めているもの」について、「思い悩むな」と言われています。 しかし、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。 だから、この世の人々が切に求めているものを求めないで、神の国を求めなさい。 あなたがたにとって必要なものはすべて神がご存じで、神の国を求めることによって加えて与えられる。」と言われているのです。 イエスは愛する弟子たちに、イエスご自身の生涯、生きる姿、語る言葉を思い起こせ。 その体験の中に、新しい生きる意味を捜し出し、新しい神の国に生きる意味を見出せ。 今まで抱えて来た思い悩みを全部差し出して、すべてをご存じの神に委ねて、その神が備えてくださっている世界に生きるようにと祈っておられるのです。 だから、しばしの間、苦しみと悲しみに埋もれ、これからイエスご自身と同じ道を歩むことになる弟子たちに、「来るべき世に、神の恵みに与る神の国を求めて生きるように」と、「小さな群れよ、恐れるな。 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と祝福してくださっているのです。 そのためにイエスは、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。 尽きることのない富を天に積みなさい。」と言われたのです。 イエスはファリサイ派の人たちに、「実にあなたたちは、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。 外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。 ただ、器の中にある物を人に施せ。 そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」(ルカ11:37-41)とも言われています。 当時の「施し」は、貧しい人に直接献げられたのではなく、会堂に置かれていた箱に献げられたのです。 一旦、神に献げられたもの、神への献げものとして「施し」が考えられていたのです。 「私たちの内側に隠されているものすべてを神の前に差し出しなさい。 そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」と言われているのです。 私たちが担っている思い悩み、苦しみ、悲しみこそ、回避するべきものではなく、しっかりと向き合うべきものである。 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われているのです。
[fblikesend]「持てるものを重んじる主」 マルコによる福音書6章30~44節
イエスにより宣教の地ガリラヤに杖一本のほか何も持たないで遣わされた使徒たちは、「イエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」と言います。 彼らには様々な困難や苦しみもあったでしょうが、「残らず報告した。 食事する暇もなかった。」と言いますから、充実して、高揚して、喜んで報告していたのでしょう。 彼らの弱さや限界をご存じのうえで、「さあ、あなたがただけで人里離れた所に行ってしばらく休むがよい」とイエスは養っておられるのです。 そのような最中に起こされた、福音書すべてが記す「五つのパンと二匹の魚」による五千人の養いの箇所です。 ガリラヤの領主であったヘロデは、バプテスマのヨハネの首をはねて無残に殺してしまう恐ろしい、民衆のことなど頭に毛頭ない人物でした。 本来、この民衆のために執り成すべき務めを与えられた祭司や律法学者たちもまた、民衆の存在よりも自分たちの存在を第一とする人たちでした。 このような「暗闇」の社会に遣わされたイエスは「光」として新しく神の国が訪れたと、使徒たちとともに宣べ伝え始めたのです。 その呼びかけに押し寄せて来た群衆の姿に、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と言います。 これが、ガリラヤの人たちに対するイエス・キリストの眼差しです。 「羊」は自己管理のできない存在と言われ、「深く憐れむ」とは同情の意味を遥かに超えた「共に苦しむ」という意味合いの強い言葉です。 父なる神に遣わされ十字架の時が迫っていることを感じながら、その「救いの業」に、確信と願いを新たにされたのではないでしょうか。 ガリラヤ湖に近接する人里離れた所、夕暮れ時、時間も経ち空腹を覚え始めた時です。 このイエスの眼差しに対する弟子たちの眼差しが、「人々を解散させてください。 そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。」というものでした。 理性や経験に裏付けられた的確かつ賢い進言です。 イエスは、「もし、あなたがたにこの神の民を養うという務めがあるなら」と、弟子たちの「意志」に「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と迫ります。 「人里離れた所です。 すべての群衆を養うほどの大量のパンをいったいどこから買ってくるのですか。」という弟子たちの問いに、「それでは今、ここに、パンはいくつあるのか。 見て来なさい。」とすでに与えられているものを確かめさせ、群衆を青草のうえに座らせ、こんな僅かなものと思われた「五つのパンと二匹の魚」を取り、大群衆を養うものとして「天を仰いで賛美の祈りを唱え」祝福されたのです。 それらを弟子たちに預け、一人も洩れることなく配らせたのです。 すると、すべての人が満たされた。 その「僅かなもの」は決して減ることはなかったと言うのです。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。 あなたがわたしと共にいてくださる。 わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩編23編)というダビデの賛美の歌が、イエスの深い憐れみによってここに成し遂げられたと語られているのではないでしょうか。 「僅かなもの」とされた存在によって、すべての人が満たされたという事実が示されています。 ものの大きさや量の多さではない。 イエスによって祝福されたものであるかどうか。 イエスの深い憐れみに押し出されたみ心に適うものであるかどうかです。 その祝福されたものを弟子たちが配り、分け与えるのです。 配り分け与えられたものこそ、イエスご自身のからだでしょう。 「受け取って味わいなさい。 分かち合いなさい。」、「足りないのは、気づくこと、差し出すこと、分かち合うことに足りないのだ。」とイエスの言葉が響きます。
[fblikesend]「信仰に生きるとは」 コリントの信徒への手紙二4章7~15節
なぜ、私たちは神さまを信じることができるようになったのでしょうか。 パウロが語るように、「隠されていた神秘としての神の知恵」としか言いようがないのかもしれません。 信仰が芽生え、養われてきたのも、小さな決断が与えられたのも、見えていなかったことが見えるようになったことも、気づいていなかったことに気づくようになったことも、この世のものさしで測ることができない意味を曲がりなりにも悟り知ることができるようになったのも、自分自身の側に理由があるのではなく、神の側にその理由があるように思えるのです。 神ご自身が決意をもって繰り返し私たちに出会い現れてくださり、備えてくださっているものを指し示して、「あなたはこれを信じるか」と迫り、それに私たちが自らの弱くて壊れやすい小さな「意志」をもって辛うじて決断し従っていくことができるようにと、神が願っておられるからでしょう。 信仰は、自分の力でもつことのできない、私たちが持ち合わせていない神の霊によって、神との交わりによって授けられるものです。
パウロは、自分自身のことを「土の器」と言います。 どこにでもある土塊から造られたもろくて壊れやすい、飾るにふさわしくない卑しい器であること、同時に、陶器士が粘土をこねてつくり上げるように神がそれぞれにふさわしく造られた存在であることも示しているのでしょう。 そのような「土の器」の中に、「宝」を納めていますとパウロは言うのです。 この「宝」を、「神の並外れて偉大な力」あるいは「神の栄光を悟る光」と表現しています。 この「宝」は、「神のものであって、わたしたちから出たものではない。」 「四方から苦しめられても行き詰らない。 途方に暮れても失望しない。 虐げられても見捨てられない。 打ち倒されても滅ぼされない」とパウロが語っているのは、自分自身の中に宿っておられる復活された霊なるイエス・キリストのゆえに、そのイエス・キリストによって語られた神の約束の言葉のゆえにということです。 この章の1節に、「わたしたちは憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。」と語っているところから、むしろ神から自分に授けられた「務め」のゆえに「落胆しません。」 5節の「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えているのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」という授けられた「務め」のゆえにと語っているのではないでしょうか。 もろくて壊れやすい、飾るにふさわしくない卑しい「土の器」に、イエス・キリストを宣べ伝える務めという「宝」を盛られることによって、イエス・キリストの命が自分自身の体に現れる。 「土の器」のひび割れたところからイエス・キリストの命がにじみ出てくると言うのです。 どこからも推薦状を受けていなかったパウロの資格について批判していたコリントの教会の人たちに、パウロは逆に神ご自身から与えられた務めを「宝」と表現し、その御計画に沿って務めが果たされるなら、パウロ自身がいかに批判されようが、あなたがたコリントの教会の人たちのうえに、イエス・キリストの祈りが現れ出ると涙ながらに訴えていることが、この「土の器」と「宝」という言葉に凝縮されているのです。 「たとえ、わたしたちの中に死が働いたとしても、あなたがたの内には命が働くことになる。 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒にその御前に立たせてくださる。」とパウロは確信しているのです。 どのような「器」であるのかが問題ではない。 その器に盛られている「宝」、その人にしか担うことのできない「務め」が大切である。 「土の器」のひび割れも、もろさも、穴ぼこも、弱さも、醜さも、そこからイエス・キリストの命が溢れ出るとパウロは言うのです。
「罪に支配される人の怒り」 創世記4章1~16節
最初の人アダムとエバは一体となって、「主なる神によって男の子を得た」と言います。 最初の家族の誕生です。 兄カインは「土を耕す者となった」 弟アベルは「羊を飼う者となった」と言います。 この時すでに、主なる神に「献げ物をささげる」という神への礼拝があったと言うのです。 兄カインは、「土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。」 弟アベルは、「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」と言います。 どちらも、それぞれに与えられた大事な務めを通して与えられた「実り」です。 ところが、主なる神は、「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物に目を留められなかった。」のです。 これに兄カインは「激しく怒って顔を伏せた」とあります。 カインの怒りはどこから起きているのでしょうか。 兄としてのプライドでしょうか。 弟と比較してのひがみでしょうか。 神は兄カインに、「どうして怒るのか。 どうして顔を伏せるのか。 もしお前が正しいのなら、顔を上げ、わたしの前に立ち続けることができるはずではないか。 顔を背ける必要もないではないか。 もしお前が正しくないのなら、そのことを隠してそのままにしておくなら、罪に支配されることになる。」と言われたのです。 神は、「目に留めるかどうかはわたしの問題である。 理由のない怒りを、わたしの前に隠そうとしても無駄である。 それを隠し持ったままにするなら、カインあなたは罪に支配されるようになる。 しかし、ありのままの姿をさらけ出し顔を上げるなら、心の中にあるその過ちを支配することができるようになる。」と、兄カインに悔い改めを迫っているのでしょう。 こう迫られたカインは、その「怒り」を神に向けず弟アベルに向けるのです。 ついに、兄カインは言葉巧みに弟アベルを野原に導き出し、殺してしまうのです。 むくむくと起こった「怒り」が、次々と罪を産んでいく有様です。 一方の「献げ物」だけに目を留められたその理由を、神は明確には述べてはおられないことに留意する必要があります。 私たちの人間の側の違いを詮索する前に、神の側のみ心に目を向ける必要があるように思うのです。 神は兄カインに、「お前の弟アベルはどこにいるのか」と言います。 兄カインと弟アベルの特別な関係を、神ご自身が授けられたことを告げているのです。 「アベルは、わたしが授けた特別なお前の弟である。」と神は兄カインに告げ、それに兄カインは「知りません。 わたしは弟の番人でしょうか。」と、神から授けられた特別な交わりを「関係ない」と拒むのです。 神は、「流された弟アベルの血が、土の中からわたしに向かって、正しい裁きを求めて叫んでいる。 このままでは、その土を耕してもお前のために作物は生み出されない。 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。 それでよいのか。」とご自身のもとに立ち帰るようにとカインに呼びかけるのです。 カインはこの神の呼びかけに、これから神に裁かれ、さまよい、命を狙われる者となることを恐れて悲しんではいるが、神に授かった交わりを壊した過ちを悲しむことなく、自分の身を自分の力で守ろうと神なき世界に生きて行こうとするのです。 それでもなお神は、そのようなカインでさえも見捨てることなく、「守りのしるし」を与えてこの地上でのさすらいに備えさせ、ご自身のもとに立ち帰る願いを諦めないのです。 この「守りのしるし」こそ、イエス・キリストの十字架の死と復活でしょう。 ご自身に背を向ける一人の罪人を神は憐れんでおられるのです。 神が目を留めておられるのは、いつも弱き者、小さき者です。 彼らを憐んで、戸口で待ち伏せしている罪に支配されないよう、人と人との交わりが壊されないようじっとご覧になっておられるのです。
[fblikesend]「忘れているような小さな愛」 マタイによる福音書25章31~40節
衝撃的なイエスの言葉です。 「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、右と左により分けられる。」と言うのです。 右側にいる人たちを「わたしの父に祝福された人たち」と呼び、「天地創造の時から用意されている神の国を受け継ぎなさい。 あなたたちは永遠の命にあずかる。」と言われる。 左側にいる人たちを「呪われた者ども」と呼び、「用意してある永遠の火に入れ。 あなたたちは永遠の罰を受ける。」と言うのです。 このイエスのみ言葉は、因果応報でも勧善懲悪でもありません。 右と左により分けられることだけを主眼としたみ言葉でもありません。 「終わりの日」があること、やがてひとりひとりの決算の時、精算の時がくる。 イエスが再び私たちのところに戻って来られて、最後の審判を行う座に着き私たちをより分けると語っています。 栄光の座に着いたイエスの裁きとは果たして、私たちを罪に定め、罰を与えることでしょうか。 イエスは何のために人間の体を背負って、父なる神に遣わされ、傷つけられ、痛めつけられ、殺されまでして地上の生涯を送られたのでしょうか。 何も見えていない私たちが、この「罪なきイエス」の姿を見つめて自分の罪深さを知らされ、ありのままの自分の姿を示され、神のもとへ戻されていく道を切り開く為でした。 父なる神の救いの招きを、その御心通りに果たす為でした。 天地創造の際には備わっていた神さまとの正しい関係を回復させる為でした。 イエス・キリストの最後の裁きこそ、罪と死に縛られ、がんじがらめになっている私たちを死んでいた世界から救い出し、神の国を取り戻させる希望の時です。 神の恵みだけが支配する世界に、再び立ち帰る希望の時なのです。 裁き主は、傷跡の残る復活された主イエス・キリストなのです。 世界は、この救いの完成に向けて突き進んでいるはずです。 すべてを知り尽くした「羊飼いが羊と山羊を分けるように」より分けるのです。 山羊にならないようにとか、左側に行かないようにとイエスは語っているのではありません。 両者をより分けるものさしはどこにあるのかということです。 イエスは、「飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人に見舞い、牢にいる人に尋ねる」ということだと言われる。 どれもこれも、当時の社会ではありふれた日常生活の小さなことです。 日常生活の中にいる「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことだ。」と、その理由を述べるのです。 「わたしの兄弟」とイエスがお呼びになっている最も小さな者とは、困っている人、虐げられている人、身近にいる人の目に留まらない小さな存在の人たちのことです。 イエスは、地上の生涯でこのような人たちと共におられたのです。 彼らを救い出すために、縛られているものから解放させるために父なる神に遣わされたのです。 日常生活の些細なことこそ、この「わたしにしてくれたことなのだ」と、「そのようなことをいつしたでしょうか」と尋ね返すぐらい忘れてしまっているような些細なことを、もうすでにその一つ一つを心に留め、数えてくださっているのです。 イエスは日常生活の中においても、神のご愛を注いで働いておられるのです。 私たちもまた、神のご愛を注がれて、その恵みに満たされて感謝して日常生活を送っていることに気づかされなければなりません。 決して、その相手からの報いを求めてもいないし、自分の為に行っていることでもないでしょう。 この与えられた恵みを分ち合うという小さな営みを、主イエスがひとつひとつを大事に見つめながら数えて天に記してくださっているのです。 もうすでにひとりひとりの決算を出して待っていてくださるのです。
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