秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「天の故郷をめざして」 ヘブライ人への手紙11章13~16節

2025-09-21

 「ヘブライ人への手紙」の第11章では、旧約聖書の時代の人物たちの名を次々と挙げ、「信仰によって」という言葉が22回、「信仰のゆえに」という言葉が2回用いられ、彼らは信仰に支えられて生かされたと、まるですぐ近くで見ていたかのような親しさをもって語ります。 その「信仰」を、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であると定義し、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と言うのです。 個々の振る舞いに見え隠れする「人間としての迷いや弱さ、何かしらの身勝手さや不信仰」ではなく、彼らの人生全体の歩みのうちに大きく働いた神のご計画とみ心を捉え、この世を駆け巡って死んでいった「おびただしい証人の群れに囲まれている。」(12:1)と言うのです。 決して死者について語るのではなく、その生き様と死に様を通して死者が語っていることを聞こうではないか。 一緒に同じ方向に歩んでいこうではないか。 死者たちと共にこの世の生涯を生かされていこうと迫るのです。 アブラハムは、「故郷カルデアのウルからカナン地方に向けて出発し、一時留まっていたハランを出発したとき75歳であった」と言います。 約束の地がどのようなものであるのかよく分からないのに、「神の約束のゆえに」まだ見えていない最終点としての神の国を望み見てアブラハムは踏み出したのです。 部族社会であった当時を鑑みれば、アブラハムのとった行動は無謀であり、危険なものであったのです。 これから先いったいどうなるのだろうか分からない不安の中に、唯一神のみ言葉だけに立って従ったということです。 自分の知識や経験によって築き上げられた「常識」という吹けば飛ぶような空虚なものではなく、いつまでも変わることのない確かな神の約束に立って生かされていく姿を「信仰によって」と表現するのです。 「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都」がどのような所であるのか知らずに出発したと同時に、「他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束を受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。」と言います。 約束の地を所有するどころか、定住することさえ叶わない、天幕を張って居を転々としていく生活を共にしたと言うのです。 このアブラハムの最初の動き出しは、父テラの存在による下準備があったからです。 もし父テラが部族から出ていくことを躊躇していたなら、成し遂げられなかったのです。 「信仰によって」何を成し遂げたのかではなく、「更にまさった故郷、天の故郷」を熱望し捜し求めていたかどうかが大切なのです。 その途中で終わる人生に見えたとしても、「神はそれらの人たちの神と呼ばれることを恥となさいません。 神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(11:16)と断言するのです。 それぞれの生涯に垣間見た「躓きや欠けや弱さ」にこそ働いてくださる「神の恵み」の働きとその背後にある神のみ心を、走り通した「死者」と共に見出し、「死者」と共に生きることが大切なのではないでしょうか。 「信仰によって」生かされた者は、「信仰」において死んであるべき故郷に立ち戻るのです。 この手紙に記されている「証人たち」こそ、「天の故郷」を前方に見ながら道の途中でこの世の歩みを終えた旅人であり続けたのです。 祝福の連鎖の中にある存在として、繋いでいく務めを私たちは与えられているのです。 神は誰一人として、その生涯を歩み通した者を恥とはなさらない。 すべての人に「永遠の住まい」を用意してくださっているのです。 この世の生涯を走り終えた人を通して語りかけてくださっている神のみ心を聞き取ることです。 それぞれの生涯の結果に縛られず、主イエスに結ばれて神が準備してくださっている故郷に辿り着くよう、召された者も遺された者も共に招かれているのです。 「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(13:5)のです。

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「受け入れ、伝えるもの」 コリントの信徒への手紙一15章1~11節

2025-09-14

 パウロは、「わたしが最も大切なこととしてあなたがたに伝えた福音を、ここでもう一度知らせます。」と、コリントの教会の人たちにこの手紙の最後の部分で記すのです。 パウロが語り続けた「福音」こそ、パウロ自身も「受け継がれてきたもの、告げ知らされたものである」と言います。 「福音」とは、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと」であると、神ご自身が起こされた出来事を事実として告げるのです。 私たちがこの出来事をどう受け止めているのかとは先ず関係なく、神さまの決断によって私たちのために起こしてくださった事実であると言うのです。 私たちの信仰こそ、この神が起こしてくださった出来事を告げるみ言葉に聴き、それを受け入れ、その事実の背景にある神のみ心を神の働きによって悟り、そこに立ち続けることではないでしょうか。 パウロは、「あなたがたはこの福音によって救われます。」と言います。 不確かな自分を土台とするのではなく、神がなさってくださった揺らぎようのない事実とみ心に立ち続けることだと迫ります。 この「福音」の事実の証人こそ、聖書のみ言葉だと言うのです。 もうひとつは、復活の証言者の存在です。 ケファ(ペトロ)を筆頭に多くの兄弟たち、イエスのすぐ下の弟ヤコブといったように、すべての使徒たちに現われた。 「月足らずで生まれてきた、神の教会を迫害してきたこのわたし」にも現れてくださったとパウロ自身が証言するのです。 死んで葬られたキリストが復活して生きて「出会って」くださった。 それに止まらず「共に生きる交わり」が与えられた。 その赦しと解放の恵みから「新しい務め」が与えられたと証言するのです。 「福音」は知識や学問でも、倫理や道徳のようなこの世を生きるすべを告げる教えでもありません。 人間として父なる神への祈りと信仰によって、み心に従って歩まれ、神の国に生きる新しい命を私たちの初穂として与えられ、神のもとに辿りつく道を切り開いてくださったキリスト、復活させられて今も生きて働いておられるお方として、私たちの生活や生涯に現れ、地上での重荷を共に背負って私たちの内に宿ってくださったキリスト、この地上の生涯の終わりが終わりではなく新しい始まりであることを告げ知らせたキリスト、これこそ、パウロが「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。 わたしと共にある神の恵みがずっと働きました。」と告白する「福音」の凝縮、核心なのではないでしょうか。 このキリストは、人間として生まれてくださったのです。 生きるために大工の働きもし、人間としての罪深さも身をもって味わうというナザレの人イエスの十字架での死は、33年間の人間としての歩み、神のみ心を慕い求めて祈り惑った歩みでもあったのです。 祈りと交わりをもってしか、父なる神のみ心を計り知ることのできない人間としての制約を私たちと同じように味わってくださった。 そのお方がついに、聖書のみ言葉から、祈りと交わりによる父なる神の呼びかけによって確信し、十字架のもとに架け上がってくださった主イエスの十字架の死は、この世の生涯の延長線上にあるのです。 主イエスの死と復活は、私たちの死と復活につながっている。 「葬られた」とは、人間としての罪の結果として父なる神によって「贖い」として裁かれた。 「復活した」とは、ナザレの人イエスに起こされた事実を私たちもまた体験させていただき、復活させていただくことになるということです。 復活させられたキリストが「出会って」くださって、その「交わり」のうちに注がれる神の恵みの働きによって、神のもとに辿り着くまでこの世の終わりの死を越えて、新しい命に生きる道を備えてくださったということです。 復活させられて今もなお生きて働いておられるキリストとの「出会い」と「交わり」なしに、「福音」は福音とならず「信仰」は信仰にならないのです。 

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「分からせてくださる主」 マルコによる福音書7章14~23節

2025-09-07

 「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」と主イエスの間に、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と論争が起こっています。 手を洗わないで食事をする人たちこそ、律法によって「汚れた人」と彼らは決めつけるのです。 そこで主イエスはイザヤの預言を引用して、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 人間の戒めを教えとして教え、むなしく神を崇めている。 「人々の前で天の国を閉ざしている。 自分がそこに入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」(マタイ23:13)とまでイエスは言います。 神の掟を守ることに込められた神のみ心を知り、そのみ心に従うことが大切である。 「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」と言われたのです。 この主イエスの言葉は当時としては、大胆な律法の言い伝えに対する全面否定であったのです。 それから、主イエスは再び群衆を呼び寄せて、「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」と言われ、イエスご自身を通して語られたみ言葉に聞きなさい。 神のみ心を霊なる力によって分からせていただき、「悟りなさい」と言われたのです。 主イエスご自身に従うとは、その口から語られるみ言葉に聴いて、父なる神のみ心を悟り従ってみることです。 その時初めて、主イエスの恵みにより自分が変えられていくことになる。 そのことを感謝して、喜んで受け入れることになると主イエスは語られたのです。 その際、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」と、謎めいた言葉を発しておられます。 今、ここで論争となっている「食べ物」のことです。 「食べ物」は人の心の中に入っていくのではなく、腹の中に入り、やがて消化されて外に出されていき、すべての食べ物は清められると言います。 「清い食べ物」と「汚れた食べ物」を区別することは無意味であるし、手を洗うかどうかでその区別の決定的な要因とはならない。 「食べ物」が人を汚すのではなく、「人の心の中から出てくるものこそ、人を汚す。 人間の心の中から、人間の悪い思いから出てくるものが人を汚す。」と、12の「悪い思い」の例が列挙されています。 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。」(ルカ6:45)と言われているのです。 主イエスは愛する弟子たちはそうであってはならない。 人間の言い伝えに従うことが、必ずしも神の掟、神のみ心を果たすことにはならない。 言い伝え通りに形だけ整えていても、神のみ心を果たしていることにはならない。 そう言われて、「清くされた者」と「汚れた者」を区別し、一つのものさしに当てはめ、それにそぐわないものを排除しようとする姿であることを主イエスは示し、そうであってはならないと愛する弟子たちに語りかけておられるのです。 イエスの言われる「心の中」とは、人を人たらしめる、様々な思いを生み出す源泉のことです。 その「心」は、主イエスご自身から離れていてはならない。 そこは、神との交わりの場、出会いの場、復活の主が宿られる場です。 神によって備えられた「人の心」をもって、神ご自身を愛するように互いに愛し合いなさいと言われているのです。 神がその独り子をもって贖ってくださったほどに、この私を愛してくださっていることを示されたのなら、この神の恵みの中で自分自身と他の人々を見つめる目が変えられていく。 心の中から出てくる賜物を、誤った向きに用いてはならない。 神との出会い、交わりの場をしっかり保っているなら、授けられている賜物が用いられて、その人を立ち上がらせることができることを、愛する弟子たち、私たちに主イエスは語っておられるのでしょう。

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「贖われたわたしのもの」 イザヤ書43章1~7節

2025-08-31

 主なる神は、イザヤを通して、「耳の聞こえない人よ、目の見えない人よ」と呼びかけています。 アッシリア帝国に傷つけられ、バビロニア帝国により捕らえられ、自分たちの国も自分自身もどうしようもないと現実に諦めて、無気力に漂って失望、落胆しているイスラエルの民。 神がずっと告げ続けてきた約束、み言葉をないがしろにし、現実の目先の欲と打算、あるいは自らの身や立場や正しさを守るだけに注力し、神への信頼を忘れ切っているイスラエルの民。 厳しい叱責とともに、「主に向かって歌え 叫び声をあげよ」と、新しい契約が与えられると諦めることなく呼びかけられたけれども、神のみ心を知ろうともせず、み言葉に聴こうともしないイスラエルの民。 神の側からみれば、自分勝手な者であるはずのイスラエルの民に向けて、今置かれている厳しい逆境、バビロンでの囚われの身、イスラエルの国の崩壊、これもまた神による因果応報ではない。 み心によるもの、神から授けられる務めを果たすためのひとつの過程に過ぎない。 「イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。 わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。」忍耐に忍耐を重ねてきたがこの切迫した現状に、「今」わたしは決断した。 「目の見えない人を導いて知らない道を行かせる。 通ったことのない道を歩かせる。 行く手の闇を光に変える。 曲がった道をまっすぐにする。」と言うのです。 人知では到底考えも及ばない方法で、彼らの絶望的な状況を憐れんで癒す。 そして、神のもとへ戻って行く道を惑わし、気づかせないようにするこの世の「偶像」に依り頼む者、人間が造り上げたものを神に取って替える者は恥を受けて退くことになると言われているのです。
 そのようなイスラエルの民を、主は「わたしの僕、わたしが遣わす者、主の僕」と呼びかけるのです。 見るには見るが、聞くには聞くが、その意味や背後にある神のみ心を悟ることができないイスラエルの民に、これらの逆境を起こされたのは「主ではないか。 このお方にわたしたちは罪を犯したのではないか。」とイザヤは訴えるのです。 「しかし、あなたがたを創造された主は、あなたがたを造られた主は、今こう言われる。」と言い、あなたがたを造り上げた主、命の所有者である主がその命に対する責任を果たす。 そのお方が、あなたがたの不信仰のゆえにこのような逆境に置かれた。 かつての出エジプト、アッシリアやバビロニアの征服の痛みを思い出してみよ。 どれほど破れに破れても、そうさせておられるのは意図をもって隠れて働いておられる主である。 「恐れるな。 わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。」だからである。 どのような所でも、どのような時にも、「わたしはあなたの名を呼ぶ。」と主は励ますのです。 代価を払って買い取るという「贖う」ということは、状況が回復されるということだけではなく、神なしに生きていくようにと誘い、惑わし、縛り付ける肉なる体との戦いから解放されるということです。 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する。」と言われるのです。 そして主は、東から、西から、北から、南から、地の果てから、私の民を集める。 このイザヤ書の預言を味わい、新約聖書の時代に主イエスの贖いによって主の救いの業が完成されたことを、霊なる力によって目覚めさせられたのです。 私たちは自分の存在価値を、自分自身の中に見出そうとします。 何か新たに得ることに奔走するのです。 自分が勝ち取った刻々と移り変わるものではなく、すでに主から与えられているものを見出し感謝して、それを用いることによって初めて自分の存在が示されるのではないでしょうか。 自分にないものを手に入れようとするのではなく、主によって備えられているものをありのまま差し出して、主のために用いるところで、本当の意味や価値があることを味わうのです。

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「モーセの三つのとりなしの祈り」 出エジプト記33章18~23節

2025-08-24

 シナイ山で張るようにと主に命じられた「臨在の幕屋」とは、モーセと神が交わるところ、人々がモーセを通して主に出会うところということです。 モーセがこの幕屋に入ると、「雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセに語られた。」とあります。 そこでは、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」のです。 この幕屋が人々の宿営の中にあるということは、民の只中に主がおられるということの約束です。 やがて約束の地カナンに到着し、定住して後にそれがエルサレムの神殿となり、主イエスが十字架に架けられて復活なさってからは、その復活の主が私たちの中に宿り、それが神の神殿となると聖書は語るのです。 この「臨在の幕屋」を自身の内に宿していなければ、神との交わりを保つことはできないのです。 第33章の最初のモーセの「とりなしの祈り」は、モーセがシナイ山からなかなか降りてこない不安から、イスラエルの民が「金の子牛」の偶像を造り上げ、不信仰な姿を表わし、神との契約が無効になってしまった際の祈りです。 「あなたはわたしに、この民を率いて上れと言われました。 しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。 もし、あなたがわたしに御好意を示してくださるのなら、あなたの道を示してください。 この国民があなたの民であることも目にお留めください。」というものでした。 この祈りに、主が「わたし自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と答えられても、モーセは引き下がりません。 二つ目の「とりなしの祈り」です。 「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。 あなたがわたしたちと共に行ってくださることによって初めて、あなたがわたしとあなたの民に御好意を示していることが分かるでしょう。」と訴えます。 この祈りにも主は、「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。 わたしはあなたに好意を示し、あなたを選んだからである。」と答えてくださったのに、モーセは満足することなく迫った三つ目の「とりなしの祈り」が、「どうか、あなたの栄光をお示しください。」という祈りでした。 神の直接的な輝き、その姿を見せてくださいと迫る、驚くべき神に対する要求です。 これに対し主は、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせる。 あなたの前に主という名を宣言する。」と答え、「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」と、神ご自身の恵みの主権を宣言され、「たとえモーセであっても、あなたはわたしの顔を見ることは許されていない。」と答えるのでした。 神は霊であるから、私たちの肉眼で捉えることはできません。 神は、不義なる人間をたちまちのうちに焼き尽くす、この世のものとは全く異なる存在でしょう。 しかし、主は「わたしの栄光が通り過ぎるとき、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。 わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」と言われるのです。 「神の顔」とは、様々な形で表される神の輝き、神の臨在のことでしょう。 「神の後ろを見る」とは、神の本質を見極めることはできないが、神の御業やご性質による直接の輝きを味わうことではないでしょうか。 「神に近づきなさい。 そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)と言います。 神の前に出れば、罪も過ちも弱さもすべて顕わにされます。 それでも、モーセは民とともに神のみ前に出ようとするのです。 モーセにとって「神を見る」とは、神の善い賜物を味わい、指し示されたご性質を知ることなのではないでしょうか。 「モーセの前を通り過ぎるわたし」とは、語りかける神のことでしょう。 神の栄光を、モーセは目で見、耳で聞き神を味わい知るのです。 主イエスもまた、「永遠の命とは、神を知ること、神がお遣わしになった主イエスを知ること」だと、天を仰いで祈っておられるのです。

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「鷲のように翼を張った新たな力」 イザヤ書40章27~31節

2025-08-17

 エルサレムが主なる神の不思議な業によって救われたアッシリア帝国が、今度は頭角を現してきたバビロニア帝国に打って替わられる。 そのバビロニア帝国が、紀元前586年に南ユダ王国を滅ぼし、人々を囚人として捕縛し連れ去る。 そのバビロニア帝国が紀元前539年にペルシャによって滅ぼされ、なんとそのペルシャ王によってイスラエルの民が「バビロン捕囚」から解放されるという出来事が起こされたのでした。 第二イザヤはこの出来事が起こされる前に、「バビロン捕囚」の民に向けて、エルサレムの崩壊も、バビロン捕囚も、この屈辱的な苦難はすべて神の意志によるものである。 神の大いなる救いのご計画であると先取りし、バビロンからの復帰という新しい歩みに向けて、慰めの預言と救いの宣言を語るのです。 主イエスは、この第二イザヤの預言を我がこととして、御自身の十字架の予兆として受け取り、そのための神の御言葉として受け取ったのです。 27節に、本来神の民であるはずの「ヤコブよ、イスラエルよ」と呼びかけ、「わたしは神に忘れられている。 わたしの訴えは聞き入れられていない。」と、なぜ吐き捨てるのかと迫ります。 確かに異教の地、偶像の神に囲まれていれば、あるいは大多数の人々が正義としているものに出会えば、その信仰生活も疲れ果ててくるでしょう。 しかし、そのような抵抗に遭わないようにしようとする自分自身の生き方こそ、もしかしたら最大の抵抗であるのかもしれません。 聖書は、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、忍耐強く走り抜こうではありませんか。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)と語っています。 第二イザヤは、「苦役の時は今や満ち、咎は償われた。 罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた。」(2節)と言います。 続けて、「あなたは知らないのか。 聞いたことはないのか。」と言い、あなたの神は、「とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。」ではないのかと迫るのです。 初めに地の基いが造られた時、すでに神はおられたではないか。 神には終わりも初めもない。 ここで言う「地の果て」とは、バビロンの地を指すのでしょう。 地図上の場所を示すのではなく、偶像の神に取り囲まれ、武力や権力や物の豊かさや華やかさに支えられている、神の御心から最も遠く離れているところということです。 第二イザヤは、たとえどんなに神から遠ざかっていたとしても、神の救いの届かないところなど存在しない。 すべて神の御心、神のご計画によるものであり、私たちには「英知は究めがたい」と言われる「隠された神」がおられるのです。 神は、自然を通してでも、歴史を通してでも、私たちの過ちや不信仰を通してでも、ご自身をことごとく顕しておられます。 バビロンの地、神から最も遠く離れたところ、「地の果て」から、もともとあった神のもとに再び立ち帰らせるという新しい歩みに向けて、絶望を体験したイスラエルの民に、喜びの宣言を告げているのです。 「疲れた者、勢いを失っている者」である私たちは、神のもとから最も遠く離れたところに抑留された私たちを引き寄せる「倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたく、限られることもない」神の力と知恵を受けることを待つことです。 神が働き出されるまで待つことです。 待たないで、受け取らないで、主に望んでいない者とならないようにと語るのです。 その力は「鷲のように翼を張って上る。」と言う。 鷲のごとく、気流を知り、感じ取り、その流れに翼を委ねて気流に乗って飛んでいく。 「主に望みを置く人」とは、焦ることも、慌てることもなく、神との交わりを絶やさず、神の力と知恵に委ねて、神のもとから注がれる「時々、所々」で吹く風を受け取って舞い上がるのです。

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「父ヤコブの苦悩と信仰」 創世記45章16節~46章4節

2025-08-10

 エジプト王ファラオの前でファラオが見た夢の解き明かしをしたヨセフは、夢の中にあった世界的な規模の飢饉に際し、食糧を貯えることをファラオに進言した。 それが、エジプトのみならず周辺諸国をも救うことになった。 そこにヨセフのイスラエルの兄たちが食糧を求めてカナンの地より、穀物管理のエジプトの宰相ヨセフのもとにやって来たのです。 ヨセフにしてみれば、銀貨20枚で売られてエジプトに追いやられたのです。 父ヤコブには野獣に食われたと嘘の報告をされ、家族から引き裂かれ、父ヤコブをひどく悲しませたのです。 すぐに兄たちであることが分かったヨセフは、「本当に正直な人間だと言うのなら、兄弟の内の一人だけを牢獄に監禁するから、他の者は飢えている家族のために穀物をもって帰り、末の息子をここに連れて来なさい。」と命じ、兄たちの袋に穀物を詰め支払った銀を受け取ることなく返し、帰る道のりまでの食糧をも与えたのです。 このヨセフの命令を受けた兄たちは、弟ヨセフのことで罰を受けているのではないかと恐れたと言います。 兄たちから説得を受けた父ヤコブは、「どうか、神がその人の前でお前たちを憐れみ、監禁されているシメオンとこの末の弟ベニヤミンを返してくださるように。」と祈ったのです。 カナンの地に残されていた父ヤコブと兄たちの葛藤の姿です。 以前の兄たちとは全く異なる、兄弟がひとつとなった姿になったことを見届けたヨセフは、ここに至ってついに、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 お父さんはまだ生きておられますか。」と告白し始め、「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 わたしをここへ遣わされたのは、あなたたちではなく、神です。」と語ったのです。 嫌がらせのようなヨセフの仕打ちこそ、ヤコブの息子12人がひとつとなって神の民イスラエル12部族として築き上げられるためではなかったか。 エジプトにいるヨセフとカナンの地に留まる兄弟たちがひとつにされたのは、ヨセフが先に異国の地エジプトに遣わされて、神とともにいて養われていたからではないかと思わされるのです。 もうひとつの感動の場面が、130歳になっていた父ヤコブと息子ヨセフの22年ぶりの再会です。 兄たちはヨセフの告白を聞いて、父ヤコブに「ヨセフがまだ生きています。 しかもエジプト全国を治める者になっています。」と報告する。 それを聞いた父ヤコブは「気が遠くなった」と言う。 ヤコブはこの時初めて、ヨセフをもうすでに諦めていたことに気づかされた瞬間ではなかったでしょうか。 忘れていたヤコブの祈りに対して、ずっと生きて働いておられた神の働きに対する畏れが生まれたのです。 神の約束が生き続けていた確信に立ったヤコブは、「元気を取り戻した」と言う。 心が新たにされて、「わたしは行こう。 死ぬ前にヨセフに会いたい。」と、神から約束されていたはずのカナンの地を離れることを決断するのです。 それが「ベエル・シェバ」という場所の礼拝でした。 アブラハムがここで井戸を掘り当て、約束の地を初めて得て、神のみ名を呼んで礼拝した場所です。 イサクが祭壇を築いて主の名を呼んで礼拝した場所です。 ヤコブ自身もかつて夢の中で神に出会った場所です。 ヨセフとの再会の喜びでもない、ヨセフのもとに身を寄せる生活の安定のためでもない、神の御心に委ねていく信仰がそこに表されたのです。 約束された土地、神の祝福にしがみつくのではなく、祝福を与えてくださったお方にしがみついたのです。 その時、約束の地カナンから離れて、また連れ戻されるという約束を、ヨセフはそこで得たのです。 「終わり」から「今」を、やがて訪れる「将来」から「現実」を見る。 聖霊によって、神の約束を信じることができるようになる。 隠された神のみ心を聖霊によって現実の中に見出し、やがて訪れる「終わり」の神の恵みの完成の希望に生かされるようになるのです。

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「ふたりはひとりにまさる」 コヘレトの言葉4章9~12節

2025-08-03

 「すべては空しい」という言葉で始まる「コヘレトの言葉」は、この世の不条理や矛盾あるいはこの世の「悪」にどのように対処すべきかという道徳的な視点を感じますが、むしろ、ひとりひとりに与えられた人生の目的は何か、生かされている意味はどこにあるのかという問いを探求している視点を強く感じます。 ルターは、コヘレトは「隠された神のもとで人生の大いなる謎の前に無力に立ちつくす人間である。 人生の意味への深いこの疑いは、コヘレトのような理性の立場からは答えられない。 しかし、このようなごく自然な人間の絶望は、福音の光に照らされる時、克服される。 『コヘレトの言葉』はキリストへの道を備える書である。」と、旧約聖書から新約聖書への橋渡しとして評価し「慰めの書」と呼ぶのです。 「改めて、太陽の下に空しいことがあるのを見た。」と断じて、その説明のために「ひとりの男」の姿を持ち出します。 社会の中の孤独なひとりの存在を象徴します。 動機はどうであれ、仲間との交わりを捨てひとりで生きていこうとしている姿、「富」のために飽くことのなく労苦している姿であると言います。 本来、生かされていくために備えられたに過ぎない「富」を、自身の人生の目的と化してしまった姿です。 この姿を「空しく、不幸なことだ。」と断じて、いったい「だれのために労苦するのか」と問いかけるのです。 「ひとりよりもふたりが良い」と、社会の中の仲間との交わり、主イエスにある交わりに生きるようにと勧めるのです。 主イエスは、神と人との交わりを取り戻すためにこの世に遣わされてきたのです。 この世を裁くためではなく、この世が救われるために遣わされてきたのです。 主イエスに結ばれた者どうしの間にある隔てを取り除くために、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と新しい戒めを与えてくださったのです。 私たちは創造の初めより、人を必要とする存在、主にある人と人との交わりの中に生かされる存在として創られたのです。 分かち合える者を必要としているのです。 人生を旅になぞらえ、旅をしながら労苦を共にする仲間との生活を念頭に、「共に労苦すればその報いは良い。」と言います。 天地創造の際の「耕す」という労働は「仕える」という意味の言葉が用いられており、本来の労働は神から与えられた地を耕すこと、その置かれた地に仕えるということなのです。 「善いサマリア人」のたとえでは、主イエスは「追いはぎに襲われ、半殺しの目にあった人の隣人にだれがなったと思うか」と尋ねられたのです。 隣人になったのは、触りたくないものに近づいて行ったサマリア人です。 主イエスは、私たち罪人の中に自ら飛び込んで来てくださったのです。 「真の仲間」とは、「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」、この変わらぬ愛を仲間に求めるのです。 残念ながら持ち合わせていないもので、主イエスを通して注がれるご愛によらなければならないのです。 「寒い夜に野宿するときも互いに暖まれる」存在でしょう。 諺にも「喜びは分ち合えば倍になり、悲しみは半分になる」と言うではありませんか。 旅の途中、襲って来る強盗たちにも、ふたりなら立ち向かえると言うのです。 そして、「三つよりの糸は切れにくい」とまで言われる。 これは「三本の矢」ということ、二人よりも三人ということでもなく、主に結ばれている者どうしの交わりに、「二人または三人、わたしの名によって集まるところにわたしはいる」と待っておられる主イエスに結ばれた三つよりの糸ということではないでしょうか。 救い主イエスの登場の前準備として響いてきます。 私たちの弱さも違いも越えて、救われる道がすでに開かれているのです。 弱さも、違いも、神の恵みに気づかせる出発点であるように思わされます。 パウロはそれを神の御前に曝け出して、その弱さを用いられて、「その弱さで十分である」と主イエスに言われたのです。

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「わたしの名によって集まるところ」 マタイによる福音書18章15~20節

2025-07-27

 マタイによる福音書第18章では、神と人との関係、主イエスに結ばれた人と人との関係を通して、「天の国、神の国」について語りかけています。 18章冒頭で主イエスは、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と語り、「つまずきは避けられない。 だが、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は不幸だ。」とも言われます。 そのうえで、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。 これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と諭されたのでした。 そこで語られた「たとえ」の「迷い出た一匹の羊」とは、神との関係を失った存在です。 もともと神との関係、隣人との関係の中で生きていくようにと創られた存在であることを忘れてしまった存在です。 神の側からすれば、この失われた存在を取り戻すことが神の御心であった。 主イエスこそ、この迷い出た羊、滅びに向かっている存在を取り戻すために、人間として遣わされてきた存在であった。 父なる神が容認することのできない、人間を縛る「罪」を背負って代わりに裁かれるために、「贖罪のいけにえ」として遣わされてきた。 そうでなければ、失われた存在である私たちは「神の国」に入ることができない。 神のもとから引き離そうとするとてつもない力をもっている「罪」から、私たちが解放されなければならない。 神の御心が果たされるよう、神と人との関係が崩れないよう、神によって呼び集められた人と人との関係が崩れないようにと、主イエスはこの第18章で、一緒に神の国に入るようにと促すのです。 そこで、「兄弟があなたに対し罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」と言われる。 「兄弟」とは、主イエスによって呼び集められた神の民の群れの兄弟のことです。 そのままでは滅んでしまうから「兄弟」の罪は神のみ前に真剣に問われなければならない。 ひとりも滅んではならないという神の御心のゆえに、その兄弟に「罪」を見つめてもらわなければならない。 神の裁きは神の赦しに大きく覆われるのです。 「もしその兄弟が、あなたの言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」 失われた羊、自ら神と人との関係を閉じた者を取り戻したことになると言われるのです。 もし兄弟が聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。 それでも聴き入れなければ、教会に申し出なさい。 教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」と言うのです。 わたしの名によって集まるところにおいては、本人が気づくようにと祈り合い、異邦人か徴税人のごとく神との交わりから最も遠いと思われた人々ですら、主イエスは救いと恵みを与えられたではないかと、主イエスの名による祈りに委ねるようにとマタイによる福音書は指し示しているのです。 この直後に主イエスは徹底的に赦すようにと、「仲間を赦さない家来」のたとえを語るのです。 自分自身がすでに主君から赦された恵みのうちにあることを忘れて、仲間を断罪する家来の姿です。 主イエスの十字架に象徴されるご愛の分かち合いから離れることのないよう、自ら主イエスに結ばれた関係を絶ち切らないよう、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言われるのです。 神の民の群れ、主イエスのからだとなるように、本来神ご自身しか持ち得ない権能「天の国の鍵」が授けられているとまで言われる。 他人の過ちを告発するだけのひとりよがりの義人とならないよう、主イエスの名による交わりと祈りに委ねていくように、私たちに授けられている権能こそ主イエス・キリストの権威のみであることを決して忘れてはならないのです。 

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「神の畑、神の建物」 コリントの信徒への手紙一3章1~9節

2025-07-20

「神に用いられる器」とは、神に必要とされている人ということでしょう。 私たちは、主イエスに出会って、主イエスに結ばせていただいた者です。 「キリストのからだ」であるからこそ、果たすべき役割は大なり小なりそれぞれにふさわしくあるはずです。 与えられた役割が果たされなければ「キリストのからだ」全体、キリストを通しての神のみ心が果たし得ないことになるのです。 「神に用いられる」とは、自らが「キリストのからだ」の一部であることに気づかされ、自分に備えられた恵みを受け取って従順に用いて、感謝してその御心に委ねて従っていくということではないでしょうか。 パウロがコリントの教会の人々に、「兄弟たち、キリストとの関係においては乳飲み子である人々」と呼びかけています。 パウロは2年足らずでコリントの教会を立ち上げ、その後を弟子のアポロに託して、エフェソに移ったのです。 アポロは雄弁で、聖書に精通し、説教で多くの人々を魅了し、外見も立派であったと言います。 一方、パウロは朴訥で、説教は分かりづらく、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と表現されています。 アポロに惹きつけられた人々は、アポロを指導者として新しい歩みを望んだ。 一方、創設者であるパウロから直々に教えを受け導かれた人々は、新しいアポロの動きに反発をしたと言います。 これが、コリントの教会内部の争いです。 パウロは、「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる。」と言います。 パウロの言う「肉の人、ただの人」とは、キリストの十字架の贖いのみ業に立つことなく、いつまで経っても自分という存在に囚われている人のことです。 一方、「霊の人」とは、キリストの十字架に贖われ、自分という存在が神のものとなっている人、自らの拠り所をキリストの十字架の贖いに置いて、その恵みに生かされている人のことです。 パウロは終始、「十字架に架けられたキリスト」(2:2)だけを宣べ伝えてきたと言います。 神のみ言葉の方に違いがあるのではなく、聴く側の状態によって「乳を飲むようなもの」になったり、「固い食物を噛み砕くようなもの」になる。 この十字架の救いを受け止めるには、どうしても霊の働きが必要になるのです。 「わたしたちはキリストのからだであり、アポロも、パウロも、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。 パウロは植え、アポロは水を注いだ。 しかし、成長してくださったのは、神なのです。」 パウロは、私たちは「神の畑」であると言います。 蒔かれる種はみ言葉です。 それが実り、育っていく畑が私たちだと言うのです。 実を結んでいくのは、蒔かれた神のみ言葉です。 あくまでも大切なものは神の働きです。 私たちが用いられて、神の恵みの業が映し出されることなのです。 もうひとつパウロは、私たちが「神の建物」だと言います。 私たちは「キリストのからだ」の一部分です。 一人一人が立派になり、建物全体が成長するのではない。 一つ一つの結びつき、交わりを壊してはならないのです。 主によって集められた群れ全体の益を目指しているのです。 この全体を築き上げるのは、神ご自身です。 私たちは神が蒔いてくださる畑、神が築いてくださっている建物に組み込まれた部分です。 十字架を背負ってくださったキリストを指し示すこと、蒔かれた福音の種を受け止め聴き続けること、自分を顧みるのではなく十字架の上で罪を贖ってくださっているキリストを仰ぎ見ることです。 これらのことを邪魔するのが「自我」、「肉の思い」です。 自分自身から解放されること、神のみ前に進み出て砕いていただくことです。 神は用いられるのは、この「砕かれた魂」(詩編51:19)なのです。 「わたしの神」から「神のためのわたし」へと変えて頂きましょう。 

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