「エレミヤの祈り」 エレミヤ書 32章16~25節
エルサレムの都はバビロンの軍隊によって襲撃を受け、ユダ王国の滅亡は決定的です。 「この都エルサレムをバビロンの王の手に渡す。 彼はこの都を占領する。 ユダの王ゼデキヤはバビロンの国の民、カルデヤ人の手から逃げることはできない。 ゼデキヤ王はバビロンへ連行され、わたしが彼を顧みるときまで、そこにとどめ置かれるであろう。」と、預言者エレミヤは主なる神から伝えられていたのです。 ですから、この預言の通りに語っていたエレミヤは、ユダ王国の王の宮殿の中にある獄舎に拘留されていたのです。 そのような状態の中にあったエレミヤに臨んだ主の言葉が、「エルサレムの北に位置するアナトトという先祖伝来の畑を銀で買い取り、その購入証書を封印し、器に納めて長く保管せよ。」という、不思議なみことばでした。 エルサレムが包囲され、今にも陥落し、自分たちの領地が敵であるバビロンに占領されようとする時です。 アナトトの地とは、バビロンの軍隊が進撃する通り道です。 いったい何のために、そのような愚かな、常識はずれなことをするのかと問いたくなるものでした。 しかし、エレミヤは真剣です。 創世記のノアと同じです。 主が、「この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る」と言われたからです。 今は分からないが、主のみこころ、意志がそこにあると感じ取ったからです。 エレミヤは、自分の目の前にある絶望的な状態と、主が伝えるこの不思議な約束の希望のはざまに立たされました。 バビロンの軍隊を遣わしてユダ王国を滅ぼし、壊し、砕こうとされる神と、アナトトの土地を購入させて、再び立て直し、回復させようとする希望の神に出会ったのでした。 ですから、エレミヤは真剣に祈ります。 それが、今日の箇所の「エレミヤの祈り」です。
エレミヤは、天と地を創り出した主なる神は、災いをもって壊し、砕き、戒められる神であると同時に、恵みをもって再び造り直される神であると祈ります。 エレミヤの信頼する神は、恵みを与え、信頼する者を祝福される赦しの神であると同時に、「その謀は偉大であり、御業は力強い。 あなたの目は人の歩みをすべて御覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます。」という裁きの神であるとも祈ります。 このユダ王国の滅びも、エルサレム神殿の崩壊も、神のみこころである。 すべてを見通され、罪に妥協しない神は、再び、私たちを赦して回復させてくださる創造の神であると、エレミヤは希望をもって祈っています。 16節に、「購入証書をネリヤの子バルクに渡したうえで、主にこの祈りをささげた」と書かれています。 エレミヤの祈りは、不平や不満の祈り、主に対する願いでもありませんでした。 まさに、絶望のただ中にあるこの時に私に命じられたご命令を果たしましたと叫んでいます。 すべてをゆだねて、その約束の希望にかけて待ち望む覚悟を叫んで、祈っています。 主なる神への揺るがない信頼に立った、真剣な訴えの祈りに聞こえます。 主は預言された通りにすべてを破壊されました。 「それにもかかわらず」、残された者を、この地に連れ戻し、回復させる。 人が戻り、回復される時が必ず来ると言います。 残された者とは、この神の裁きを受けて赦された者です。 神の裁きに遭って、悔い改め、心砕かれた者です。 神の裁きを通って赦された者が、その回復の恵みに与かると言うのです。「幸い」も「災い」も、すべて神のもとから出てくるものです。 神は、「幸い」も「災い」からも、恵みを与えてやまないお方です。 私たちを打ち砕き、壊すお方でもありますが、放蕩息子を迎える父親のように、再び赦して、帰らせ、住まわせてくださるお方でもあります。 エレミヤの祈りは、絶望の今をしっかりと見つめて、将来に向けて祈っています。 私たちもまた、この厳しい現実の中において、将来に向けてこの揺るがない希望を祈って参りたいと願います。