「いのちのパン、救いの杯」 ヨハネによる福音書 6章34~40節
「わたしは羊の門である。 わたしを通って入る者は救われる。 その人は、門を出入りして牧草を見つける」というイエスのみことばがあります。 「わたし」という門から入る羊は、牧草を見つけて食べるようになる。 それは「命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われました。 そして更に、「わたしは良い羊飼いである」、牧草を与えて養っている「自分の羊のために命を捨てる」、「わたしは自分の羊を知っており、自分の羊もわたしを知っている」と言われました。 うかつに聴き流していれば、羊飼いと羊とのやさしい関係だけの物語となってしまいます。 そこに留まらないで、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊がいる。 その羊も導かなければならない。 こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と言われました。 この羊の門の囲いの中では、必要な養いが与えられる。 からだの養いだけでなく、そこに生きる命が与えられる。 また、その養いを捨て、命を捨てて囲いの外に迷い出たあるいは出て行ってしまった失われた羊のためにも、「わたしは命を捨てる」という「キリストの十字架」を語っています。 キリストに導かれる一つの群れ「教会」を語っています。 それだけではない。 「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。 わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。 これはわたしが父から受けた掟である。」と、「キリストの復活」と父なる「神のみ心」まで語っているのです。 主イエスは、「命に通じる道はなんと狭く、その道も細いことか。 それを見いだす者は少ない。」とも言われました。 幸いに、私たちは恵みにより、信仰により、この道を知らされました。 この道はたとえ狭く細くても、すべての人に開かれている道であり、門です。 わたしたちが、この門をくぐって歩いていなければ見えて来ない道であり、門です。 「はらわたが引き裂かれる痛み」までをもって、私たちを待ち続け、招いてくださっておられる道であり、門です。 ですから、私たちは苦しくても、痛み傷ついても、この門をくぐります。 この道を歩きます。 それが、私自身が、また私とのかけがえのない交わりにある隣り人が、まことのパンを得るためです。 囲いの外にあるさまよう羊が命を得るためです。
五千人に食べ物を分け与えるという奇跡を起こされた直後に、なおも「しるし」を求めた群衆に、「わたしが命のパンである。 わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。 この「しるし」を起こされた神がお遣わしになったイエスご自身を信じること、これをお求めになったのです。 そして、これが父なる神の「み心」である。 私はこの神の「み心」に従っている。 その「み心」とは、「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」と言われたのでした。 残念ながら、群衆のみならず弟子たちもまた、この「復活のまことのパン」を信じることはできませんでした。 それどころか、十字架のもとから逃げてしまう弟子たちでした。 しかし、その弟子たちを選んで、復活した命の姿を四十日間にわたってお見せになりました。 弟子たちにとっては必要な四十日間でした。 その十日後に、約束の霊を受けて、キリストの群れが立ち上がったのでした。 彼らは「毎日ひたすら心を一つにして、家ごとに集まってパンを裂き、一緒に食事をし、神を賛美した」とあります。 復活されたキリスト、命のパンと救いの杯に与かる。 このキリストにつながり続ける。 「主よ来たりませ」と待ち望む。 これが、初代教会の礼拝の姿です。 「わたしは命のパンである。 わたしを食べなさい」と招いてくださるお方を信じます。 そのお方を遣わした「み心」を信じます。