「キリストが形づくられるまで」 ガラテヤの信徒への手紙 4章8~20節
パウロの時代には、ユダヤ教の律法主義者たちとの戦いや異邦人との戦いもありましたが、それだけではありませんでした。 キリストにある群れの中においても、律法から抜け切ることのできないユダヤ主義キリスト者たちとの戦いもありました。 パウロが苦労して築き上げてきたガラテヤ地方の教会の中にも、このユダヤ主義者たちが忍び込んで来たのです。 パウロが宣教した後の教会に出向いて行っては、キリストの福音から律法へ、神の恵みから人の行いによる努力へと逆戻りさせようとする。 この手紙は、そのガラテヤの人たちに、産みの親のように、耳を傾けてくれるようにと哀願しているパウロの「涙の祈りの手紙」なのです。
パウロは、かつてのガラテヤの人々の姿を、「神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていた」と言います。 イエスは「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。 しかし、今、あなたがたは「神を知っている」はずである。 いや、「神に知られている」はずだと言い替えています。 全知、全能で、どこにでもおられる神を、私たちは知り尽くすことも、究め尽くすこともできません。 しかし、パウロは逆に、その神が私たちを知ってくださっている。 私たちがどこにいようが、どのような状態であろうが、私たちを知り尽くして、そば近くにおられる近い神であると言います。 そうであるのに、あなたがたはなぜ逆戻りして、無力で頼りにならないこの世の霊のもとに奴隷として仕えようとするのかと嘆いているのです。 その理由が、あなたがたをキリストの福音から熱心に「引き離そう」としている者たちがいるからだと言うのです。「割礼を受けなければ救われない」、「特別な日、特別な季節を大事にしなければならない」と行いを求める。 律法という行いを通して、キリストの福音の恵みから彼らを引き離そうとする。 ユダヤ人という身分を通して、キリストの自由な交わりから締め出そうとする。 キリストの弟子にしようとしないで、自分たちの弟子にしようとする。 これは、キリストの支配から自分たちの支配へとひっぱり込もうとする者たちとの戦いです。 この戦いは深刻です。 一見、何も変わらないかのように福音の根幹をひっくり返す。 キリストの十字架の死を骨抜きにしてしまうからです。 パウロは、「兄弟たち、お願いします」と語りかけます。 「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください」 私に見倣えと言っているのではありません。「キリストは、神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。」 パウロも同じでした。 「すべての人に対してすべてのものになりました。 何とかして何人かでも救うためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」と言って、異邦人のようになりました。 これは妥協ではありません。 福音のためなら相手のようになること、これがキリストの福音の姿ではないでしょうか。 更に「わたしたちの子供たち」とパウロは呼びかけます。 「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」 私たちの信仰は、このキリストの愛によって様々な人に祈られ、支えられています。 自分でつかんだものではありません。 ただ恵みによって、人を通して、霊によって与えられたものです。 人間の知恵によってではなく、聖霊によって与えられた神の祝福以外の何ものでもありません。 信仰の迷いの中で、もう一度立ち帰って、キリストの十字架の死を見上げ、悔い改めの道を歩んで欲しい。そこにキリストが誕生する。 キリストが宿る。 キリスト者が誕生するとパウロは願っています。