「切り倒された木の根株から出た新しい芽」 イザヤ書 11章1~10節
2000年前の救い主の誕生を、それから更に約700年も遡って預言しその望みを抱き続けた旧約聖書の時代があります。 預言者イザヤは、ユダヤの国の平和を本当に求めた人物でした。 しかし、ある時はアッシリアの軍事力に頼り、またある時にはエジプトの支援に頼ろうと失敗したユダヤの王たちに、イザヤは失望します。 エッサイという小さな家系から出たダビデによって造り上げられたユダヤの王国は、切り倒されてわずかに残った切り株となってしまった。 しかし、そこには「残された切り株」がある。 そこに「新しい一つの芽」が萌え出で、「ひとつの若枝」が育つ。 その上に、「主の霊がとどまる。」と約束されたのでした。
主は、エッサイの血筋を引いたダビデが打ち立てた約束のユダヤの王国を、その民の不信仰のゆえに滅ぼされました。 ユダヤという大木を、主は惜しげもなく切り倒されたのです。 主は、ご自身がお選びになった人々がそのみこころに背く歩みを、見過ごされるお方ではありません。 それは、選んだ人々を裁くためではありません。 ご自身が選ばれた人々を、最後までその責任とご愛とご真実を貫くために切り倒されたのです。 不信仰は、主の前に切り倒されねばならなかったのです。 しかし、切り倒されなければならなかった私たちの不信仰のその上に、「新しい芽」を育むと言われたのです。 ひと度は、切り倒されて傷を受けて、望みが断たれたように見えるその切り倒された切り株に、「ひとつの新しい芽」が芽吹くと言うのです。 古い生き方を刈り取られてしまった私たちの切り株、傷跡、その痛みの上に「新しい芽」を植えて、新しい若枝を育ててくださると言うのです。 この望みを、イザヤはクリスマスから遡って約700年前に見出したのです。 それが今から2000年前に成し遂げられたクリスマスの出来事です。 私たちの本当の不信仰は、この主の約束、恵みを受け取ろうとしない、拒むことではないでしょうか。 この「新しい芽」、イエス・キリストの上には、「主の霊がとどまる」と言います。 「主の霊がとどまる」とは、「神、我らと共にある」ということです。 この主の霊には、三つの賜物があると言います。 「主を知るという知恵」、「主に従うという勇気」、主を知る知恵と主に従う勇気からくる「主を畏れ敬う姿」です。 「新しい芽」には、この「主を畏れ敬う霊が満たされる」と言います。 まさに、この姿こそ、イエス・キリストの生涯そのものではないでしょうか。 力に拠らず、自らを低くして、その誕生から十字架に至るまで主の霊に満たされて従順に歩んだイエスの生涯です。 この主を知る知識に満たされたお方が私たちに与えられた、それがクリスマスの喜びです。
イザヤの預言は、それだけではありませんでした。 その「新しい芽」であるイエス・キリストのとどまるところには、真の平和があると言います。 すべての命ある者の間に、神が良しとされる正しい関係があると言うのです。 真の平和は、争いがないということではありません。 力によってつくり上げられるものでもありません。 主を知る知識によって「主を畏れ敬う霊」によってつくり上げられる神との正しい関係でつくり上げられる。 イザヤは「その日が来れば」、大地は主を知る知識で満たされると言います。 これが救い主イエス・キリストが造り上げる平和です。 この平和は絵空事でしょうか。 理想論でしょうか。 小さな家庭、小さな交わりの中にも、主にあって「主を畏れ敬う霊に満たされる」、「主を知る知識で満たされる」、そのようなことが実現することは不可能なことでしょうか。 このクリスマスに、「切り倒された痛みの根株」に、このお方を迎え入れて、その上に主の霊が満ち溢れるようにと祈って参りたいと願います。