秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「かけがえのない今日」 ルカによる福音書 4章16~21節

2014-11-30

 次第に成長されたイエスは、故郷ガリラヤのナザレからヨルダン川に出て来られました。 バプテスマを受けられるためでした。 すると、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」 そのイエスが、「聖霊に満ちて」、ヨルダン川からお帰りになりました。 そして、荒れ野の中を「霊によって」引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられました。 悪の霊の試みを受けられたイエスは、ことごとく退けて「霊の力に満ちて」故郷ガリラヤのナザレに帰られたと記されています。 イエスの歩みの始まりは霊の力に満ちて、その生涯は悪の霊との隣り合わせであったということです。 戻って来られたイエスは、「いつものとおり」安息日に会堂に入られた。 「いつものとおり」聖書を朗読しようとした。 「いつものとおり」会堂の会衆の前でお立ちになった。 イエスは、「いつものとおり」神の前に立ち続けておられた。 「いつものとおり」みことばのうえに立ち続けておられたのです。 私たちの罪は、この神のもとから隠れようとするところから、神のみことばに耳を傾けなくなるところから始まります。 
 当時の会堂では、立ち上がって聖書の朗読をした者がその箇所について座って教えを語ります。 「いつものとおり」イエスが聖書の巻き物を開いて読み終え、巻き物を巻き、係の者に返して席に座られた時です。 「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれた」のです。 そのイエスが立ち上がって読まれた箇所がイザヤ書61章でした。 バビロニアに捕らわれていた人々が、長年の願いが叶えられ解放された。 喜び勇んでエルサレムに戻り神殿を再建することを願ったのでした。 しかし、あまりにも破壊され尽くされたエルサレムの廃虚を見つめ、人々は呆然としたのです。 いったいどのようにして、再び新しく興し直していいのか分からないほどの状況であった。 そこに「廃墟を立て直し、廃虚の町々を新しくする」と告げられた。 そのために、神のもとから遣わされるメシアが到来するとイザヤによって預言されたのです。 そこに、イエスは目を留められた。 どこから手をつけてよいのか分からないほどに崩されてしまったエルサレムを再び興し直す。 貧しい人に福音を告げ知らせる。 捕らわれている人に解放を告げる。 目の見えない人に視力の回復を告げる。 圧迫されている人を自由にする。 そのために、「わたしのうえに主の霊が満ちておられる。 主が油を注ぎ続けておられる。」 イエスは、このみことばに目を留められ、会衆の前で立ち上がり、読み上げて座られたその時です。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と語り始められたのです。 取るに足りない存在である私たちのうえにみことばが成し遂げられるとは、いったいどういうことでしょうか。 みことばを耳にしただけでなく、それが実現すると語っておられるイエスご自身を受け入れる。 それだけではない。 そのイエスが、受け入れた私たちの中で脈々と息づいて働いておられると、私たちが信じている。 この事実以外にはないのではないでしょうか。 ユダヤのある村の会堂で、二千年前に語られたこのみことばが、十字架の死と復活によってすべての人々のうえに救いの業が成し遂げられました。 そして、今日の私たちが、そのことを信じて受け入れている。 「今、ここに」、みことばが成し遂げられている。 かつてイザヤを通して語られたみことばが、取るに足りない私たちのうえにも成し遂げられていることを、私たちは決して忘れてはならないのです。 アドベントこそ、この「今、ここに」を覚え賛美しつつ、起された出来事に感謝し、これから再び起されようとする希望を新たにする時ではないでしょうか



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