「人間から出たものと神から出たもの」 使徒言行録 5章33~42節
ペトロとほかの使徒たちが、多くのしるしと不思議な業を民衆の間で行っていました。 民衆の賞賛を得て、益々イエスを信じる人の数が増えてきていました。 祭司たちは「ねたみに燃えて」、その使徒たちを捕らえて牢に入れていたのです。 イエスを十字架につけた報復があるかもしれない。 民衆を扇動するかもしれないと思ったからです。 自分たちの身を守るためです。 牢にはしっかり鍵をかけて、牢の戸の前には番兵を立たせていたほどの念の入れようでした。
神は、その閉じ込められていた使徒たちの「牢の戸を開けた」。 戸を開けただけでなく、牢の外に「連れ出した」。 連れ出しただけでなく、「行って神殿の境内に立ちなさい。 この命の言葉を残らず、民衆に告げなさい。」と命じられたのです。 使徒たちは、ただ神の声が告げた通りに従っていただけなのです。 激しい「ねたみ」と「怒り」が渦巻く中にあっても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」 「神は、あなたがたイスラエルが木につけて殺したイエスを、救い主として復活させられました。 私たちは、この事実の証人です。」と、相手が大祭司であっても一貫して語ります。 その時の状況を考えれば、聖霊を通して使徒たちを導いて「牢の戸を開けて、牢の外に連れ出して、語らせた」神から出た言葉としか言いようがありません。
今にも使徒たちが断罪されようとしているその時に、どんでん返しが起こったと聖書は言うのです。 ひとりの律法学者が立ち上がります。 「ほうっておくがよい。 あの計画や行動が人から出たものなら、必ず自滅するだろう。 しかし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」 こう語った人物は、ファリサイ派に属する律法学者ガマリエルでした。 あのパウロがこの人物のもとで「律法について厳しい教育を受けた」と言っている、ファリサイ派の権威ある人物でした。 この発言をどのようにお受け取りになるでしょうか。 「神の怒りに任せなさい」と聞こえて来ないでしょうか。 「もし、神から出たものであるなら、彼らを滅ぼすことはできない。 もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない」という言葉に、神への恐れを感じないでしょうか。 このガマリエルの発言によって、使徒たちは釈放されたのでした。 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」という言葉こそ、律法学者たちが語っていた教えです。 使徒たちの教えは、それと何ら変わることはありません。 異なるのは、使徒たちはその言葉通りに神に聴き従っていたということです。 一方、律法学者たちは神のみこころを思わず、自分の身を守ることに汲々として、「ねたみによって」、「怒りによって」使徒たちを捕らえて殺そうとした。 その使徒たちを、「牢の戸を開けて、連れ出して、命の言葉を語る」ように導いたのは、神です。 使徒たちだけに、神は働かれたのではない。 捕らえて殺そうとしていたファリサイ派の中心人物でさえも用いて、釈放させたのです。 単なる釈放ではない、次なる所に立たせるための解放であったのです。 「ねたみ」や「怒り」だけに動かされる者から、恐れも打算もなく「神の事実の証人」として大胆にされた使徒たちでした。 律法を究めた人物も越えて、神のみ声だけに耳を傾けて「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜ぶようになった」使徒たちでした。 「毎日、神殿の境内や家々で、絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせた」使徒たちでした。 すべて、聖霊によって与えられた変貌です。 変えられた使徒たちの姿はまた、私たちの姿であるはずです。 「連れ出されて、この命の言葉を残らず、民衆に告げなさい」と託された使徒たちの姿は、私たちの姿であるはずです。 この使徒たちと共に、霊なる力に身を委ねていきたいと願います。