秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「いつまでも残るもの」   コリントの信徒への手紙一 13章8~13節

2014-09-28

 13章は、愛の賛歌と呼ばれています。 「愛」を、「愛は忍耐強い。 愛は情け深い。 ねたまない。 愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と表現しています。 もし、このパウロが語る愛の賛歌が、人間の理想とする愛を語っていると言うなら、人間がつくり上げることのできる愛です。 単なる道徳です。 このみことばだけを取り出して、私たちは受け取ることができません。 パウロは、コリントの教会に向けて、教会がつくり上げられるためにはたくさんの霊の賜物が与えられている。 その霊の働きが、キリストの教会をつくり上げるのだと戒めてきました。 そのパウロが、「わたしはあなたがたに、もっと大きな賜物を受けるように最高の道を教えます。」と語ったみことばが、「どんなに、霊の賜物である預言を語ろうとも、神についての知識に通じていたとしても、信仰をもっていようとも、よい行いに身をささげたとしても、愛がなければ無に等しい、何の益もない。」というものでした。 パウロの言う「愛」とは何でしょうか。 
 パウロは、「愛する私」がではなく、「愛」が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と言います。 「愛する私」がではなく、「愛」が「忍耐強い。 情け深い。 ねたまない。 自慢せず、高ぶらない。」と言うのです。 「神の愛」が現わされた「イエス・キリストの愛」が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と言っているのです。 私たちに等しく降り注がれ続けている「神の愛」が、「すべてを忍び、すべてを耐える」と言っているのです。 私たちが働いているのではない、「神の愛」そのものが働いているのだと言うのです。 愛は、神から出てくるものです。 神からいただくものです。 ですから、パウロは、この「愛」は決して滅びないと言います。
 なぜ、パウロは、霊なる賜物として与えられている様々なものは「廃れる」と言うのでしょうか。 今、賜物を与えられて見えているというものは、「まだその一部分である。」 「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」に過ぎない。 しかし、今は、部分的にしか見えていなくても、完全なものが来たときには、「顔と顔とを合わせて見ることになる。 部分的なものは廃れて、はっきり見えるようになる」と言います。 どのようにはっきり見えるようになるのかというと、「はっきり知られているようにはっきりと知ることになる。」と言うのです。 どういうことでしょうか。 私たちが、神にはっきりと知られているように、私たちが今度は、神をはっきり知るようになる」と言うのです。 私たちは、すでにはっきりと知られている、神に愛されている。 その私たちがはっきりと神に愛されていることを知ることが、神を知るということだと言うのです。 神に知られている、愛されていると知ることができたのは、イエス・キリストがこの地上に現れてくださったからです。 十字架によらないで、またイエス・キリストに救われることなく、「神の愛」を知ることも、伝えることもできません。 ですから、パウロは「愛が、すべてを忍び、すべてを耐える」という間に、「すべてを信じ、すべてを望み」という「信仰」と「希望」をはさんだのです。 パウロは「神の愛」を、この信仰と希望とともに語り、これらと無関係に「神の愛」を語らないのです。 この「信仰」と「希望」に深く結びついた「神の愛」を最高の道として、コリントの教会の人たちに説いたのです。 この三つの神との関係が永遠に残る。 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。 その中でも最も大いなるものは、愛である。」と言っているのです。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元