「神の霊への賛歌」 ローマの信徒への手紙8章1~11節
父なる神のもとからくる神の霊は、「交わりの霊」です。 神との交わり、イエス・キリストとの交わり、この深まりを導く神の霊です。 私たちを、何か特殊な能力を持つ者に変えてしまうものではありません。 パウロは、私たちの現実の生活の中で何よりも私たちを支えているのは、この神の霊であると証言しています。 私たちの矛盾だらけの営みの中にこそ、この「交わりの霊」である神の霊が、「すでに」、「すべての人に」、「それぞれに」宿る「特別な場所」を、神は用意してくださったと賛美しています。
パウロは本当に嘆いています。 「わたしは、自分のしていることがわかりません。 自分が望むことは実行せず、かえって、憎んでいることをするからです。」 「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と言うまでに嘆きます。 自分の中には、この「肉に従って歩む自分」と「霊に従って歩む自分」がいる。 この矛盾のなかに自分の現実はあると正直に言います。 しかし、パウロはそう言いながらも、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である」と言います。 「霊に従って歩む者」は、肉に死んで霊に生きる神の命に与かるようになる。 神との平和、神との絶えることのない交わりに生きるようになると言うのです。 キリスト・イエスによって、「霊に従って歩む自分」が、「肉に従って歩む自分」から解放されたから、「わたしは、主イエス・キリストを通して神に感謝します」と言っているのです。 パウロが嘆いているように、「霊に従って歩む自分」も、人間の本性むき出しの矛盾に満ちた世界の真っ只中を歩む者です。 そのような中において、神はイエス・キリストに結ばれる特別な場所を「交わりの霊」によって備えてくださいました。 それが、「神の霊があなたがたの内に宿っている」、「キリストがあなたがたの内におられる」、「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っている」とパウロが表現しているところです。 キリスト者とは、この神の霊、キリストの霊が宿っている、イエス・キリストに固く結ばれている者のことを言うのではないでしょうか。
私たちはこの「交わりの霊」によって、どうすることもできなかった罪と死の支配から解放されました。 神が罪を罪として処断されることから免れた。 「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはなくなった」。 神との絶えることのない交わりに与かるようにと、キリスト・イエスに結びつけてくださったということです。 新しいもうひとつの「キリストに結ばれて歩む道」です。 これこそ、旧約聖書のなかでエレミヤやエゼキエルが預言してきた、神の霊による新しい契約です。 神の子イエス・キリストを受け入れその前にひざまずくすべての人に、恵みによりご自身の霊を与える。 神の霊、キリストの霊に満たされて、自分の内から神を知るようになる、神のみこころを行うようになる。 このように、神は私たちを「私たちの内に宿っている霊」によって、死者の中から復活させようとしておられます。 矛盾だらけのこの世界の現実に、このよみがえりが「すでに」、「すべての人に」、「それぞれに」始まっている。 私たちを創造されたお方が、再び、私たちを創造されようとしておられます。 私たちは、この希望と感謝のうちに、「み国を来たらせたまえ」と祈りながら歩んでいるのです。