「失われない者」 ヨハネによる福音書6章34~40節
「わたしが命のパンである。 わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 このみことばが、どのような相手に、どのような時に、どのような場面で語られたかを見ますと、今の私たちに強く迫ってきます。 語られた相手は、大麦のパン五つと魚二匹によって五千人に食べ物を与えられ、養われたという奇跡を目の当たりにした群衆です。 イエスは病人を癒すだけではない、神のもとから来られた預言者であると思い、「自分たちの王」として担ぎあげて連れ出そうとついて来た、その翌日のことです。 この時の群衆とイエスの対話によって引き出された、みことばであったのです。
「いつ、ここにおいでになったのですか」 これが最初の群衆の質問でした。 やっとの思いで見つけ出して、イエスを祭り上げようと自分たちの思い通りにしようとしたその時です。 イエスは「はっきり言っておく。 あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言います。 病が癒される、飢えたおなかが満たされる。 もっと必要なものを与えて欲しい、この状態から解放してほしい、「自分たちの王」としてもっと力を見せて欲しい。 「見たら信じましょう」、「納得したら信じましょう」 そのような群衆にイエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない食べ物のために働きなさい」と言われたのです。 そう言われた群衆は、そのためには「何をしたらよいでしょうか」と尋ねます。 イエスの答えは、「神がお遣わしになった者を信じることである。 それが神の業である。」でした。 神がお遣わしになった者、神がはっきりと意図をもって送って来られたみ子イエス・キリストを信じることである。 そのイエスが神のみこころ通りに黙って服従しておられること、そして、その従うイエスのうえに父なる神が働いておられることを信じることである。 これが、あなたがたのなすべき仕事であると言われたのです。 群衆はこう言われても、「あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。 どのようなことをしてくださいますか。」と尋ねてしまうのです。 群衆は、モーセが荒野で神から食べ物をいただいて人々に食べさせたことを知っています。 イエスにも信じる為のしるしを求めたのです。 イエスはついに、「天からパンを与えたのはモーセではない。 父なる神が与えたのである。 わたしの父が、天からまことのパンをお与えになる。」 このイエスの発言に「そのパンをいつもわたしたちにください」と群衆が叫んだその時に、今朝のみことばが語られたのです。 イエスは、群衆に説明をしたのではありません。 「わたしが命のパンである」 父が、今、こうして私という姿によって命のパンをお与えになっている。 だから、私を受け入れなさいと群衆に迫ったみことばなのです。 イエスが何者であるのか明らかにされました。 そして、イエスの使命が何であるのか示されました。 「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではない。」 「わたしをお遣わしになった方のみこころを行うためである。」 そしてついに、父なる神のみこころまでも明らかにされました。 「わたしをお遣わしになった方のみこころとは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないことである」、「終わりの日に復活させることである」、「わたしを見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」、「わたしは、このみこころに従っている」 そうお答えになったのです。 群衆が生きた時代も、私たちが生きている時代も、これからも、私たちのだれ一人も失われないことが、神のみこころなのです。 私たちは、滅びることのない「生きる者」、神と共にある「失われない者」なのです。