「約束を待ち望む者」 ルカによる福音書 2章22~30節
生まれたばかりのイエスとの出会いを通して、賛美と祈りを叫んだひとりの年老いた人物がいます。 イエスの両親は、モーセの律法に記された通りにエルサレムの神殿に出向いて行きます。 その時、シメオンというエルサレム神殿の祭司が、霊に導かれて神殿の境内に入ってきます。 律法を通して導かれた両親に連れられて来られた幼子イエスと、霊に導かれたシメオンとの、神によって引き起こされた出会いでした。 シメオンは、聖書には「正しい人」、「信仰があつい人」であった。 自分のためではなく、「イスラエルが慰められるのを待ち望んだ人」であった。 「救い主に出会うまでは死なないと約束を受けていた、聖霊が留まっていた人」であったと言います。 そのエルサレム神殿の祭司であったシメオンが、イエスを連れて来た両親に自分の方から駆け寄って、その幼子を抱き上げたと言うのです。 供え物も満足に用意できなかった貧しい夫婦です。 エルサレム神殿には、数多くの参拝者が訪れたであろうことを思えば、目に留まるはずのない小さな存在であった夫婦です。 祭司シメオンは、その幼子イエスを腕に抱いて「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目で救いを見たからです。」と叫んだのです。 神がシメオンの生涯を通して語らせた、神への賛美と祈りの言葉だったのです。
シメオンは、霊によって与えられた神の約束を待ち望んで、祈りと礼拝の場を年老いても離れることはありませんでした。 「救い主に会うまでは」と、祈りの家に礼拝の民として生き抜いて、この自分の場を離れなかったのです。 この救い主に出会うことが、シメオンの生きる目的でありました。 そのために、置かれた場所を離れず、待ち望んで生きてきたのです。 もはやそう遠くはなかろう、自分の生涯のかなたに、その約束を果たしてくださった神が用意してくださっている「神の国」をはっきりと見出し確信したのが、「わたしはこの目であなたの救いを見た」「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。」というシメオンの言葉でした。 この主イエスに出会うことができるかどうかは、私たちの内なる信仰が、今、どのような状態であるのかということです。 私たちは、この主イエスに、どのような顔で出会うのでしょうか。 主は、私たちの信仰を探し、見ておられます。 そのことに気づくためには、神の約束を知り、悟ることです。 そして、待ち望むことです。 そのために、祈りと礼拝の場を離れないことです。 私たちの限られた生涯、「わたしはこの目であなたの救いを見た」という恵みをいっぱいいただきたい。 神は、たったひとりのためにここまで、ご真実なお方であることを心から感謝したい。