「私たちに宿るイエス・キリスト」 マタイによる福音書 2章9~15節
28名の幼稚園の子どもたちが演じるページェントに心が打たれました。 登場する当時の一人一人にとって、最初のクリスマスはどれほど突然であり、驚きであったことでしょう。 星が東方の占星術の学者たちを導いて来た場所を考えてみてください。 家畜小屋であったと言われています。 世の中の片隅に追いやられた、忘れられた貧しい所です。 そこにたたずむのは、生まれたばかりの幼子と父親と母親が小さく寄り添った弱々しい家族の姿です。 そのような所に、父なる神はご自身の大切なたったひとりのみ子を、「ともにいる」と委ねられた。 その布にくるまれた赤ちゃんの生涯を考えてみてください。 多くの人々に見向きもされない、歓迎されない誕生でした。 ヘロデ王の殺意に迫られる中で生まれ、その殺意から逃れるために逃亡を余儀なくされた誕生でした。 ついには、十字架という刑に、理由のないままに死を余儀なくされた流浪の生涯でした。 聖書は、この生涯を「みるべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もなかった」と預言してします。 それは、「わたしたちの病を担うため、わたしたちの痛みを負うためであった」と言います。 この赤ちゃんに託された流浪の生涯によって、私たちが身に帯びている痛みや悲しみや苦しみがともに担われ直され、軽くされ、神の事とされていくのです。 この世の片隅に置かれた私たちを顧み、「ともにいる」と語りかけてくださるのです。 神が約束して、神が準備して、神が贈り物としてくださった現実です。 私たちは、それをただ受け取るだけです。 このクリスマスの出来事は大昔のことでしょうか。 この神の業を本当に私たちは信じているでしょうか。 神が約束されたことは、必ず果たされます。 すべては、神が始めておられることです。 神はこのことを、このみ子イエスを通して、世界の片隅の家畜小屋で、選ばれた小さな家庭に現わされたのです。
この幼子イエスの生涯を見届けた人物を忘れてはなりません。 母マリアです。 驚きと戸惑いのなかにも、神の起こされる業に翻弄されながらも、「お言葉通りこの身になりますように」と黙って従った生涯でした。 この服従が、神の救いの業をつくり上げたのでしょう。 しかし、もうひとつ大事な務めを果たします。 本来なら、自分の手元に置いて、母親の愛情をもって我が子を育てたかったでしょう。 しかし、我が子の振る舞いが理解できずに、ひたすら心に留め置くだけでした。 自分のおなかを痛めたその子が、どのような生涯をおくったのか心に刻みつけていきます。 イエスの成長とともに霊なる胎動を感じながら、神の子イエスが彼女自身のからだの中に息づいて形づくられていきます。 神は、この一人の平凡な乙女を、身分の卑しさを選んで、神のひとり子の生きた証し人として用いられたのです。 その賛美と感謝が「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神をほめたたえます。 身分の低いこの主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」というマリアの言葉であったのです。 私たちもまた、今年訪れたクリスマスを迎えて、このイエス・キリストを私たちの体の中に宿して参りたいと願います。