「イエスの願いと私たちの願い」 マタイによる福音書 20章20~28節
「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来た」と書かれています。 いったい、どのような時であったのでしょうか。 母親は、イエスのもとにひれ伏して、何かを願おうとします。 「何が望みか」と問うイエスに導き出されて、一人の母親の心の奥底にある本当の願いが、一気に噴き出してきます。 ゼベダイの息子とは、ヨハネとヤコブです。 12使徒のなかでもペトロと並んでもっともイエスに近い存在です。 その母も、二人の息子と同じように、すべてを捨ててガリラヤからイエスに従って、このエルサレムへの夢膨らむ旅をともに歩んできたのです。 その母が二人の息子のために、イエスに向かって「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっっしゃってください。」と訴えたのです。 思わず飛び出した偽らざる、一人の母親の切実な願いです。 しかし、この母親の言葉が噴き出した時は、イエスご自身が「侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられる」と、わざわざ12使徒を呼び寄せて、ご自身の十字架の苦しみの前に立たせた時でした。 イエスと同じように、神の栄光に与かる者は、イエスの右と左に並んで苦難の中に立つ者であると、イエスが語った時でした。 確かに、この母は自分のこととしては語ってはいない。 しかし、息子たちを用いた、自分たちが栄光の座に着こうする自己主張です。 イエスは、ご自身と並んで自分の十字架を負う者である事を弟子たちに願った。 母は、イエスの右と左に座る晴れがましい息子たちの姿を願った。 イエスの願いとは大きくかけ離れた、母の願いでした。 イエスは、その母の言葉を聞いて、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。」と、息子たちにも告げます。 あなたがたは、山の上の景色は見ようとするが、山のふもとの景色を見ようとしない。 父なる神によって復活させられる栄光の姿には、その苦難からこそ生み出される十字架の傷跡と痛みがある。 イエスの苦難と栄光の姿は一つである。 ですから、イエスは「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と、問い返したのです。 自分の十字架は、自分で負っていきますという決意や決断や勇気で負えるものではありません。 イエスがそうであったように、父なる神を信じ、日々祈り、神との交わりを絶やさないことによってはじめて、背負って行くことのできるものです。 「飲むことができます」と無邪気に答えた二人の息子に、イエスはお叱りになることも、否定されることもありませんでした。 「あなたがたは、わたしの杯を飲むことになる」、「わたしと同じ父なる神の栄光に与かる者になる」と約束されました。 イエスと弟子たちは、エルサレムの都に向かって行く同じ道を歩みながら、実は全く異なる道を歩んでいたのです。 イエスは、偉くなりたい者は、ご自身と同じように皆に仕えなさい。 一番上になりたい者は、皆の僕になりなさいと言います。 単なる道徳や教えではありません。 イエスの姿、生涯そのものです。 その究極の姿が、イエスの十字架のうえの死の姿です。