「神の畑」 コリントの信徒への手紙一 3章1~9節
パウロは、コリントの教会の人々へこの手紙を書き送る直接の理由を、「実はあなたがたの間に争いがあることを知った」「あなたがたはめいめい、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつくなどと言って、皆さんが教会の中で分かれてしまっていることを聞いた」「皆さん、勝手なことを言わないで、仲たがいをしないで、心を一つにして、固く結び合ってほしい。」 このようにこの手紙の冒頭で訴えています。 コリントの教会は、パウロが開拓した教会でした。 その後をアポロが引き継いで、教会を形づくっていった。 パウロもアポロも、神のみことばを伝えるという宣教者としての大事な務めを果たした。 しかし、コリントの教会は、パウロの教会でもアポロの教会でもありません。 私たちの信仰は、キリストに結びついています。 私たちの教会は、キリストの教会です。 それらが人間に結びつく限り、そこには「ねたみ」や「争い」が必ず起こってくる。 大事なことは、「神のみことば」です。 それを語る人ではありません。 パウロは種を蒔き、アポロは水を蒔き、神の恵みの働きのために力を合わせたのです。 それを成長させて実りをもたらしてくださったのは、神です。 私たちは、何もないところからわずかなものさえも創り出すことはできません。 コリントの教会の人々は、この目に見える働きに目を奪われてしまった。 成長させ実りをもたらしてくださる目に見えない神の恵みの働きを見失ってしまった。 隠れた神の恵みに、心から感謝することを、喜ぶことを失ってしまった。 「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みである。」と、パウロは同じ手紙の中で告白しています。 パウロは、コリントの教会の土台を築くために用いられたのです。 アポロは、その土台に立って、より豊かな教会を形づくるために用いられたのです。 大事なことは、時に適って人を選び、実りをもたらすために用いられたということです。 その神の恵みが働かれたのが、神のみことばが語られたコリントの教会なのです。 パウロは、「あなたがたは、神の畑である」と、コリントの教会の人々に向けて言います。 神のみことばが蒔かれた神の畑が、あなたがた教会であると言います。 パウロによって、アポロによって神のみことばの種が蒔かれました。 いつしか、その種を蒔く人を見上げるようになってしまった。 パウロは、どうか「心を一つにして、思いを一つにして、固く結び合ってほしい。」「自分に与えられたものは、すべて神の恵みである。 無駄なものは何ひとつない。」とパウロは言います。 蒔かれた種を受けとめ、耕かされ、神の恵みに感謝し、喜んで歩んで行きたいと願います。