「イエスとの出会いから始まる出来事」 ヨハネによる福音書9章1~12節
「生まれつき目の見えない人」を癒すという、イエスが起こされた奇跡の物語です。 この出来事は、イエスと生まれつき目の見えない人との「出会い」から始まります。 この人は、一日中物乞いをさせられ、当時のユダヤ社会では罪に定められた人です。 そのようなところに、主イエスが神殿の境内から身の危険を感じ逃れて来て、主なる神に託された救いの業を果たすために先を急いで通りかかった時です。 奇跡的な出会いとしか言いようがありません。 イエスはわざわざ足を止め、その人の目を癒すという「奇跡」を起こされた。 彼を知る近所の人々も驚き、信じることができない。 本人もその驚きの事実だけを受け取り、癒してくださったお方はいったい誰なのか全く無関心です。 人に尋ねられても「知りません」の一点張りです。 イエスのなされた回りくどい治療の業が「律法違反ではないか」と、ファリサイ派の人々は本人に問い詰めるのです。 今まで、「あの方のことは知りません。」と癒してくれた方に無関心であった彼が「あの方は預言者です」と語った心の中に、不思議な変化が起こります。 「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」ファリサイ派の人々は、この人の両親をも呼び出して尋問するのです。 両親は恐れて、なぜ見えるようになったのかの判断を回避します。 これを受けて再びファリサイ派の人々は本人を呼び出し、イエスに対する思いが誤りであることを認めさせようとする。 それぞれ人間の弱さが映し出されるのです。 弟子たちは目が見えないということは罪の結果であることを疑うことなく、その罪は誰の罪なのかに関心をもった。 イエスはそのような弟子たちの目を、苦難の原因を見つけ出そうとするのではなく、苦難の意味、神の働きを見つめさせるのです。 本人は、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。 ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と、その身に起こされた確かな事実に立とうとします。 律法違反であることを言わそうとするファリサイ派の人々に向けて、「見ようとしないのはあなたがたである。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。 あの方は神のみ心を行っている。 神はみ心を行っている者に祝福を与えるはずである。」と語るまでに、本人は変えられたのです。 憤慨したファリサイ派の人々は、ついに会堂からこの人を追放するのです。 このことをお聞きになったイエスは再び本人に出会って、「メシアの存在、救いのみ業を信じるか。」と問い質されるのです。 「その方はどんな人ですか。 その方を信じたいのです。」と尋ねるその人に、イエスは「あなたは、その人を見ている。 あなたと話しているのが、その人だ。」と気づかないその人に、そして弟子たち、私たちに主イエスは繰り返し呼びかけてくださるのです。 人間の限界と思わされるところ、万策尽きたところにこそ、主なる神の救いの約束がやっと見えてくる。 未だ手にしていないものを霊なる神の力によって手にすることができる確信、これがイエスの言われる「希望」です。 目が見えるようになった人が、罪と苦難を結びつける呪縛から解放された時です。 今まで見ることができなかった未来が開かれた瞬間です。 十字架に向かうイエスが、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わなければならない。」と語る「わたしたち」とは、イエスご自身であり、癒された本人、その両親であり、ファリサイ派の人々、意見の分かれる群衆であり、そして弟子たち、私たちなのです。 イエスが「世の光」であるがゆえに、人は隠されている真実の姿が明るみに映し出されるのです。 イエスは信じるかと語り、そのことを見つけ出すようにとすべての人々を招いておられるのです。 この奇跡の出来事は、この秋田の地においても起こされる出来事でもあるはずです。


