「本当の自分と偽りの自分」 ルカによる福音書15章11~24節
この第15章には、「見失った一匹の羊」、「無くした一枚の銀貨」、「一人の放蕩息子」のたとえが記されています。 どれも、失われた存在を見つけ出した喜びが記されています。 「たとえ」の締めくくりには、「見失ったものを見つけ出したので、一緒に喜んでください。」と語り、そのことを「悔い改める一人の罪人について、大きな喜びが天にある。」とイエスは語るのです。 「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」 これが、弟である息子の父親に対する要望です。 父親はこの求めに応じたのでしょう。 「何日もたたないうちに、下の息子は分け前として与えられたもの全部を金に換えて、遠い国に旅立った。」と言います。 「彼が向かった遠い国」とは、そうなるべき、そうあるべきと強く願う自分を実現しようとした場所であったのかもしれない。 あるいは、窮屈な父親の家の生活から自由と喜びを求めての旅立ちであったのかもしれない。 この弟息子は「そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。」 それだけでなく飢饉という現象にも襲われ、放蕩の限りからついには困り始めた。 「その地方に住むある人のところへ身を寄せたところ、 その人は彼に豚の世話をさせた。」と言うのです。 ユダヤ人の彼がユダヤでは汚れた動物と律法で見做されていた豚の世話をするということは、ユダヤ人としてのアイデンティティを失ったということです。 「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった。 しかし、食べ物をくれる人は、だれもいなかった。」 そこで、「彼は我に返って言った」と言うのです。 「言った」という言葉には、「確信した、断言した」という意味が込められています。 その内面の独り言が「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇い人の一人にしてください。」というものでした。 「我に返った」という「我」とは何でしょうか。 誤った出来事を起こした「自分」、自らの決断と振る舞いに赦しを求める「自分」、元の父の息子である関係に立ち戻りたい「自分」でしょう。 困惑と混乱の「ありのままの自分」を初めて見つめ、父のもとにその姿をさらけ出して、元の「自分」に立ち帰ろうとしたのです。 自らが描いていた「ふさわしい自分」からかけ離れ、雇い人の一人になれば父は家に入れてくれるかもしれないと思った。 かつても今も、父親の真の姿を見ようともしていない。 「雇い人の一人」という「本来の姿ではない偽りの姿」を再び作り直し、父親の憐れみを条件付きで受け取ろうとしたのです。 自ら過ちを犯したと内面で告白し、元の父のところへ戻っていく「方向転換、悔い改め」です。 放蕩息子とは私たちです。 父親とは神さまです。 自ら「偽りの自分」を造り上げ、「ありのままの自分」を覆い隠そうとする。 父なる神は、覆い隠すことなく「ありのままの自分」を差し出しなさい。 私の無条件の愛を受け取りなさいと迫るのです。 この時、放蕩息子の目に飛び込んできたものは全速力で遠くから駆け寄ってくる父親の姿でした。 悔い改めて帰ってきた息子の思いをはるかに越えた父親の無条件の愛が、前もって準備してきた息子の「雇い人の一人にしてください」という言葉を言わせなかったのです。 人は罪を知るだけでは、心の底まで砕かれないでしょう。 しかし、神さまの思いを超える愛に触れたなら、心は砕けていくのです。 条件付きの悔い改めから、神の無条件のご愛に照らされた悔い改めへと導かれたのです。 息子が謝罪する前に父親は赦し、「ありのままの息子」を受け入れたのです。 息子が悔い改めたから赦したのではありません。 一人の魂の救いこそ、神によって託された喜びの出来事です。 私たちは「偽りの自分」を造り上げようとせず、「神によって造られた本当の自分」を取り戻すために、今の「ありのままの自分」をもって神の前に進み出ることです。


