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「第三の苦難の僕の歌」 イザヤ書50章4~9節

2025-11-23

 イザヤ書には、『主の僕の歌』と小見出しがついている歌が四つあります。 最初は、「主の僕の召命」(42:1-4)です。 「彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。」とあります。 イスラエルの民に対する厳しい務めをもって主の僕は招かれますが、「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。」とあり、厳しい裁きの後には細心の備えがなされていくと言うのです。 そして、二つ目は「主の僕の使命」(49:1-6)です。 口を鋭い剣とし、尖らせた矢として、主の僕は遣わされていくとあり、この主の僕によって「主ご自身の輝きは現れる。 イスラエルの民を立ち上がらせ イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。」と言い、裁きの後に「わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」と明確に宣言するのです。 そして、三つ目が「主の僕の忍耐」(50:4-9)です。 何も見えていないイスラエルの民を忍耐強く導くことになると言うのです。 そして、最後が「主の僕の苦難と死」(52:13-53:12)です。 主イエスご自身のお姿を表わすかのような「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 彼は自らを償いの献げ物とした。 罪人のひとりに数えられたからだ。」と結ぶのです。 今朝の第三の「主の僕の歌」は、最終的な十字架の死と復活に至る前に、主イエスの苦難の僕としての「忍耐」が歌われているのです。 イスラエルの民のこれまでの不信仰、不従順、背きを単刀直入に伝え自らの罪の自覚を促すことを、苦難の僕の大事な務めとして課せられていたのです。 そのうえで、主なる神は「疲れた人を励ますように 弟子としての舌を与え、言葉を呼び覚ましてくださる。」 それゆえ、「自分を打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 わたしはそれを嘲りとは思わない。 わたしの正しさを認める方は近くにいます。 だから、わたしが辱められることはないと知っている。」と語るのです。 人間として、私たちと同じように父なる神に対する従順を、この主の僕の苦難に対する「忍耐」の歌から、主イエスご自身が味わい知って十字架のもとに進んで行かれたのでした。 捕囚の民として拘束されていたバビロンから脱出するまでも、またバビロンを旅立って故郷に帰る出発を果たしてからも、その指導者である「主の僕」に対する同胞の民の迫害、中傷、屈辱は絶えることがなかったのでしょう。 しかし、主の僕は、「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく」包み込もうとするのです。 その理由は、「主なる神が助けてくださるから」、「決して辱められないことを知っている」からだと語るのです。 その迫害、中傷、辱めの中においても、「嘲りとは思わない。 辱められることはない。」 「誰がわたしを訴えるのか。 誰がわたしを罪に定めえよう。」と、真正面から苦難と迫害を受け止めるのです。 私たちの咎のために一緒に傷つけられ、私たちの不義のために一緒に砕かれるほどの「近さ」をもって、「インマヌエル」共にいてくださるからだと言うのです。 自ら懲らしめを受け、打たれ、砕かれることによって、私たちを雪よりも白い正しさに引き上げてくださるという「近さ」にある。 それが裁きの場に、裁かれる場に自ら裁かれようと主の僕が語っている言葉が、「われわれは共に立とう」という言葉に凝縮されているのではないでしょうか。 「共に神の裁きの場に立とう」という、自らが裁かれることを厭わない人間としての信仰を主なる神は「苦難の僕」、主イエスに求めておられるのです。   



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