「自分の量る秤を越えて」 マルコによる福音書4章21~25節
「ともし火」と「秤」のたとえと、小見出しが付けられています。 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。 燭台の上に置くためではないか。」とイエスは問います。 「升」とは、ともし火を消すために使われていたものであったようです。 この「ともし火を持って来る」という文章を直訳すると、「ともし火がやって来る」となります。 主語が「ともし火」なのです。 「ともし火」こそ、主イエスご自身のことです。 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)と語られているとおりです。 その光は「升の下」や「寝台の下」に置くためではなく、あたりを照らすためである。 たとえ一時的にも、その光が隠されるようなことがあったとしても、必ず自らの「光」によって輝き出す。 そうであるのに、押し寄せて来る大群衆は、「見るには見るが認めない、聞くには聞くが理解できない」という現実に直面していたのです。 だから主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と招き、「ともし火」は高く掲げられ自ずと光輝く、これこそ「わたしの務め」である。 その出来事は、私たちが気づいていないだけ、見ようともしていないだけで、そこかしこに神のみ業は働いていると主イエスは「たとえ」を用いて語るのです。 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」と言われているとおりです。 神の恵みの働きは至る所に隠されており、いずれ燭台の上に置かれてその輝きによって闇を照らすことになる。 その灯りが誰の目にも無視できなくなる「終わりの日」に向けて、世界は神のみ心どおりに動いている。 絶望してはならない、必ず明らかにされる。 「聞く耳をもつように、見る目をもつように」と招いておられるのです。 「福音」は、私たちの真実の姿を顕わにします。 罪の姿とともに、そこまで愛してくださって「価高く、貴い」と言われ、神ご自身の独り子の命を代償にしてまでも、救い出したいと望まれるほどの存在価値がある。 そのために賜物がそれぞれふさわしく与えられていると言うのです。 自分の目で見ている自分が本当の自分ではなく、神が見てくださる自分こそが、本当の自分であることを知るようになるのです。 神の国の秘密を打ち明けられ、授けられた信仰を持ち、その「秤」に従って自分を見ることができるようになる者は、更に、豊かに神の恵みが増し加えられる。 神のみ心を聞き取ってほしい。 私たちは「自分が量る秤」でしか、量ることができないのです。 しかし、もし神の「秤」、神の見る視点が私たちに加えられるなら、自分の小さな「秤」は日々変えられ、豊かに回復されていく。 岩盤のような頑なな自分の「秤」が砕かれて、開かれて、神の恵みの世界に支えられて生かされるようになれば、新しい世界を見聞きできるようになるのです。 イエスは「耳が聞こえず、舌の回らない人」だけを、群衆から連れ出し、一対一の癒しの業を始めるのです。 指を両耳に差し入れ、唾をかけてその舌に触れて、深く息をして、その人に向け「開け」と言われるのです。 自分で自分を解放できないところから、主イエスの呻きとともにご自身を重ねて解放してくださるのです。 私たちはみ言葉を聴くことによって、自分の真の姿、イエスのご真実、神のご愛の一端を知らされます。 何が聞こえているのか。 何を聞いているのかと問われるのです。 「秤」とは、私たちそれぞれに日々の変化のうちに変わり続けている「信仰」であるのかも知れません。 信仰をもって耳を傾ける者に、神さまは豊かにご自身を示してくださいます。 自分に与えられているものに気づいているのかどうか。 そして、それをどのようなものとして受け取っているのか。 自分の「秤」を越えて、神によって授けられる日々新たにされる「秤」によって生かされて参りたいと願います。


