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「今や芽生えている新しいこと」 イザヤ書43章16~25節

2025-09-28

 イザヤ書は、人間の織りなす謀り事は挫折する、その目的は所期のとおり実現することはない、空しく消えてなくなると言います。 イザヤは、「わたしは主を待ち望む。 主は御顔を隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。」(8:17) なぜなら、「神が我らと共におられるのだから。」(8:10)と、インマヌエルの信仰を公に言い表したのです。 イザヤが主なる神に招かれ、彼に託されたみ言葉が何百年後に、人間としてすべてを背負ってくださったナザレ人イエスの心に刺さり、神の救いのみ業がその言葉とおりナザレ人イエスを通して果たされていったのです。 イザヤが伝えようとした神の救いのみ業は、自分たちの国、故郷が破壊され、遠く離れた異国の地バビロンに捕縛され、連れ去られ50年以上もの年月が過ぎていたイスラエルの民、過去を引きずって希望を失っていたイスラエルの民に向かって発せられたものです。 イザヤは「目があっても見えぬ民、耳があっても聞えぬ民」と呼びかけています。 何も分からない、見ようともしない、聞こうともしない人たちということです。 「あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、イスラエルの創造者、あなたたちの王」がこう言われると、神とイスラエルの民との関係を示してその呼びかけに目と耳を傾けるようにと促すのです。 そこでイザヤは、今まで栄華を極めたバビロニア帝国から、急激に勢力を増してきたペルシア帝国を用いて、イスラエルの民を捕囚の地バビロンから解放すると預言するのです。 「見よ、新しいことをわたしは行う。 今や、それは芽生えている。 あなたたちはそれを悟らないのか。」と迫ります。 嘆きをもって過去にしがみつくことを止め、今まさに起ころうとしている新しい業に、自らの目と耳を開き、今まで考えもしなかった、芽生えている新しいことを悟りなさい。 そのために、「荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。 それは、わたしの選んだ民に水を飲ませるため」だと言うのです。 その理由は、「あなたたちはわたしを知り、信じ、わたしこそ主であることを、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを、わたしが主であることを、わたしのほかに救い主がないことを理解するであろう。」 そのために「あらかじめ告げ、そして救いを与え、ほかに神はいないことを知らせた。 あなたたちこそがわたしの証人である。 わたしが選んだ僕だ。」と言い、イスラエルの民が神ご自身について証言し、宣べ伝えることになると言われるのです。 今まで叱責され続けてきたイスラエルの民が、すべての民の前で、主なる神ご自身の証人となるように促されていることは本当に驚きです。 「わたしはこの民をわたしのために造った。 彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」と、そのためにあなたがたはこの世に生を受けているのだと言われるのです。 そしてついに驚くべき主なる神の告白、「このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい あなたの罪を思い出さないことにする。」と語られるのです。 イスラエルの民の悔い改めの有無に関係なく、主なる神は、「あなたがたを贖う方、イスラエルの創始者、あなたがたの王」として、この救いの業をご自身の一方的な恵みとして語るのです。 人間としてこの世に生を背負わされたナザレ人イエスは、神の呼びかけに応え、ご自身のこの世での使命をこのイザヤの預言からはっきりと確信されたのではないか。 主イエスが「誰が罪を犯したからでも、だれが悔い改めたからでもない。 神の業がこの人の上に現われるためである。」と言われたのは、このことではなかったかと思わされるのです。 悔い改めなければ救われないのではない。 神のご愛の一方的な恵みと祝福が私たちを悔い改めさせるのです。 神のご愛に愛されるほど、神の前に立たされ、自らの罪深さを知らされるのです。 この神の一方的な恵みと霊の賜物という祝福こそ新しい始まりです。



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