「わたしの名によって集まるところ」 マタイによる福音書18章15~20節
マタイによる福音書第18章では、神と人との関係、主イエスに結ばれた人と人との関係を通して、「天の国、神の国」について語りかけています。 18章冒頭で主イエスは、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と語り、「つまずきは避けられない。 だが、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は不幸だ。」とも言われます。 そのうえで、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。 これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と諭されたのでした。 そこで語られた「たとえ」の「迷い出た一匹の羊」とは、神との関係を失った存在です。 もともと神との関係、隣人との関係の中で生きていくようにと創られた存在であることを忘れてしまった存在です。 神の側からすれば、この失われた存在を取り戻すことが神の御心であった。 主イエスこそ、この迷い出た羊、滅びに向かっている存在を取り戻すために、人間として遣わされてきた存在であった。 父なる神が容認することのできない、人間を縛る「罪」を背負って代わりに裁かれるために、「贖罪のいけにえ」として遣わされてきた。 そうでなければ、失われた存在である私たちは「神の国」に入ることができない。 神のもとから引き離そうとするとてつもない力をもっている「罪」から、私たちが解放されなければならない。 神の御心が果たされるよう、神と人との関係が崩れないよう、神によって呼び集められた人と人との関係が崩れないようにと、主イエスはこの第18章で、一緒に神の国に入るようにと促すのです。 そこで、「兄弟があなたに対し罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」と言われる。 「兄弟」とは、主イエスによって呼び集められた神の民の群れの兄弟のことです。 そのままでは滅んでしまうから「兄弟」の罪は神のみ前に真剣に問われなければならない。 ひとりも滅んではならないという神の御心のゆえに、その兄弟に「罪」を見つめてもらわなければならない。 神の裁きは神の赦しに大きく覆われるのです。 「もしその兄弟が、あなたの言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」 失われた羊、自ら神と人との関係を閉じた者を取り戻したことになると言われるのです。 もし兄弟が聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。 それでも聴き入れなければ、教会に申し出なさい。 教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」と言うのです。 わたしの名によって集まるところにおいては、本人が気づくようにと祈り合い、異邦人か徴税人のごとく神との交わりから最も遠いと思われた人々ですら、主イエスは救いと恵みを与えられたではないかと、主イエスの名による祈りに委ねるようにとマタイによる福音書は指し示しているのです。 この直後に主イエスは徹底的に赦すようにと、「仲間を赦さない家来」のたとえを語るのです。 自分自身がすでに主君から赦された恵みのうちにあることを忘れて、仲間を断罪する家来の姿です。 主イエスの十字架に象徴されるご愛の分かち合いから離れることのないよう、自ら主イエスに結ばれた関係を絶ち切らないよう、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言われるのです。 神の民の群れ、主イエスのからだとなるように、本来神ご自身しか持ち得ない権能「天の国の鍵」が授けられているとまで言われる。 他人の過ちを告発するだけのひとりよがりの義人とならないよう、主イエスの名による交わりと祈りに委ねていくように、私たちに授けられている権能こそ主イエス・キリストの権威のみであることを決して忘れてはならないのです。