「満たされた油の壺」 列王記下4章1~7節
聖書箇所の預言者エリシャが行った奇跡は、マタイ福音書25章に記されている主イエスの語られた「10人のおとめのたとえ」の中に示された「油」と「壺」を思い起こします。 エリシャの行った奇跡の数々は、主イエスがなされた奇跡によって更に鮮明に、神のみ心を鋭く私たちに語りかけてくるのです。 預言者エリシャは、主なる神のみ言葉でなすべきことを知り、み言葉どおりに働いたがゆえにこの世で奇跡と思われるような神のみ業が示されたのです。 その奇跡が、何百年後にこの世に遣わされてきた主イエスによって、更に神のみ心が深められていった。 神の霊なるみ言葉と賜物を働かせるならば、今まで気づきもしなかった神のみ業を共に味わうことができると語りかけてくるように感じるのです。 主イエスの光によって、神のみ言葉とみ業を私たちははっきりと受け取ることができるようになるのです。 「預言者仲間の妻の一人」が、エリシャに助けを求めて叫んでいます。 「わたしの夫は、死んでしまいました。 あなたの僕でした。 主なる神を畏れ敬う人でした。」と言います。 その夫は、借金を残して死んだのでしょう。 預言者として仕えた夫の死による家族の窮乏の切実な訴えです。 しかし、妻は社会に向けて訴えるのではなく、預言者エリシャのもとにきて、神の憐れみと恵みに期待して神のみ言葉に聴こうとするのです。 彼女に対しエリシャは、「何をしてあげられるだろうか。 あなたの家に何があるのか言いなさい。」と尋ねるのです。 「油の壺一つのほか、家には何もありません。」という彼女の答えは諦めが漂っています。 エリシャは、今すでに神が彼女に与えておられる恵みの賜物に目を向けさせるのです。 そして、「外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。 空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。」と、 彼女と交わりのある者、その手元にあるものにも目を向けさせるのです。 そして、「家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。 いっぱいになったものは脇に置くのです。」という不思議な命令を彼女に告げるのでした。 マタイによる福音書25章に出てくる主イエスの「10人のおとめのたとえ」では、「油」とは主なる神から注がれる賜物、神によって注がれるみ言葉と恵みでした。 「壺」とは、それらを受け入れ、蓄えるための器、私たちの祈りであり、信仰であり、礼拝する姿でした。 このたとえは、主イエスの十字架の直前に語られた「たとえ」です。 「その日、その時」は突然訪れる。 「目を覚ましていなさい。 油を受け取る用意をして待ちなさい、 油を入れる壺の中を空っぽにして、注がれるものを受け取る準備をして待ちなさい。」と言われているのです。 この世の煩いや、自分の築き上げたもの、自分が誇りとするものがあれば、主なる神からその時に必要な新しい賜物が入ってこないでしょう。 自分に都合のよいものにしか耳に入らないでしょう。 「戸の閉められた家」だけに「油」は注がれたのです。 一つずつの「壺」に今与えられている油を注ぎ始め、いっぱいになればすぐ脇に置いて目もくれず注ぎ続けた。 どれもこれも不思議といっぱいになった。 驚いた彼女は「もっと器を、持っておいで」と子どもに言ったけれども、「器はもうない」と子どもが答えたとたん、「油は止まった」と言うのです。 他の家の話ではない、彼女の家の中に今、その時に必要な油が注がれる恵みが訪れたのです。 信仰と祈りの応答のあるところに、集中的に行われた場所と働きのもとに救いと恵みが起こされたのです。 主なる神が注がれる「油」は無尽蔵です。 どれだけ自らの「壺」を空っぽにして受け取る備えができているのかどうかです。 小さな存在を用いて、大きな憐れみと恵みの業を果たしてくださる主なる神に期待することです。 神さまからの恵みは互いに分かち合うもので、そのための「油」、「壺」です。