「主がいない間に預けられたもの」 ルカによる福音書19章11~27節
「ある立派な家柄の人のたとえ」と「ムナのたとえ」のふたつの「たとえ」が語られています。 「たとえ」が語られた理由をルカは、イエスたちのガリラヤからの長い旅がついに終わりの段階となり、「エルサレムに近づいておられるからである。」 そして、「人々が神の国はすぐに現れるものと思っていたからである。」と言うのです。 延々とイエスたちの長旅が綴られ、最後のエルサレムでのイエスの十字架の出来事を迎えようとしている緊迫した中に語られた「たとえ」であるとルカは言うのです。 マルコは、「時は満ち、神の国は近づいた。」と神の国の接近を告げます。 しかしルカは、「神の国は見える形では来ない。」と言い、使徒言行録において「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と言います。 神の国の時期の近さではなく、神の国そのものを語り、むしろその神の国の現れる時までの間の備えを訴えるのです。 「ある立派な家柄の人」のたとえには、ユダヤの人々の心に刻まれた一つの出来事が背景にあります。 ヨセフとマリアと幼子イエスは、ユダヤのヘロデ王の殺意を避けてエジプトに非難していた。 そのヘロデ王の死後、ユダヤに戻ろうとしたが、ヘロデ王の息子アルケラオがユダヤを支配していることを知って、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレの町に行って住んだとマタイによる福音書に記されています。 このヘロデ王の息子アルケラオは、ローマ皇帝より父ヘロデ王から引き継いでユダヤを治める王位を認めてもらうためにローマに旅立った。 これに反旗を翻し立ち上がったユダヤ人代表者50名がローマを訪れ、アルケラオの王位の継承と任命を妨げようとローマに陳情に行った。 ところが、ローマより王位の継承を勝ち取ったアルケラオはユダヤに帰り、自分に敵意を抱いたその50人を殺害したと言うのです。 このユダヤの人々の心の傷として刻まれた出来事を用いてこの「たとえ」に、その激しい表現を用いたのではないでしょうか。 主イエスもまた、遠いところに旅立っていく。 十字架の死をエルサレムにおいて成し遂げ、その三日後によみがえり天の父なる神のもとへ戻られる。 私たち人間が唯一神のもとへ辿り着く道を切り開いて、そこで一度失われた神の王位を再び受ける、取り戻す。 そのために主イエスは愛する弟子たちのもとを一旦離れるが、再び帰って来られる時がある。 その日まで、愛する弟子たちにはその間の時が与えられている。 神の賜物を求める者には聖霊が与えられると約束されたのです。 「ムナのたとえ」では、「あなたの一ムナで十ムナをもうけました。 五ムナを稼ぎました。」と、預けられた一ムナが新しいムナを生み出したと僕たちは喜んでいるのです。 ルカの言う賜物はすべて「一ムナ」ずつです。 「一ムナ」とは100デナリオン、1デナリオンは一日の賃金であったと言いますから、小さな単位を等しく僕たちに預けられたとルカは言います。 イエスが「神の国はからし種に似ている。 パン種に似ている。」 神のみ言葉、聖霊の働きは、この世では目にもとまらない小さな存在であるかもしれないが、「やがて成長する、膨れてくる」と言うのです。 人によって違いのあるこの世のものではない、本来持ち得ないものでしょう。 託されていること自体が喜びです。 用いることの恵みも与えられているはずです。 そこに神の恵みだけが支配する町が起こされると言うのです。 自分のためだけに自分を固く守っている人は、この世の死と共にその生涯が終わります。 しかし、主イエスが切り開いてくださった神のもとへ辿り着く道を歩む者は肉体の死をもって終わらない。 託されている賜物を、わずかな生涯のうちに用いる時、無上の喜びに囲まれるのです。 生きることは呼吸することではありません。 神に委ねてみて、神に用いられて与えられた生涯を味わうことです。