「憐れみと裁きの神」 イザヤ書30章18~26節
主なる神が預言者イザヤに託されたイスラエルの民に対する言葉は、辛辣なものでした。 イザヤはこれにたじろぐことなく託された務めに歩み始めると、主なる神はその荒廃した中から、「それでも切株が残る。 聖なる種子が残る。 ひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊が留まる。」と、「神が我らと共におられる」というインマヌエルの預言、十字架の福音の恵みの種を蒔かれたのでした。 そして、「わたしが計ることは必ずなり、わたしが定めることは必ず実現する。」(14:24)と約束されたのでした。 イザヤによって語られたみ言葉に耳を貸そうとせず、自分たちにとって耳に心地よいことだけを聞こうとするイスラエルの民の姿に語る主なる神の辛辣な預言の真の目的は、ご自身の民が立ち帰ること、そのためにイザヤが遣わされること、人々の不信仰、頑なな心は、神の憐れみだけによってしか変えられないこと、この救われていく事実を示すために、壮絶な出来事を起こされたのです。 主イエスご自身もこのイザヤの語った言葉、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(マルコ7:8)と「ファリサイ派の人々と律法学者たち」に向けて引用し、主なる神のみ心を私たちに伝えておられるのです。 私たちは、聖書のみ言葉を自分自身に語られた言葉として聞かなければなりません。 決して、「ファリサイ派の人々と律法学者たち」を非難する立場に立ってはならないのです。 主イエスと主なる神のみ言葉は、私たちを神ご自身のみ前に立たせてくださるためです。 このつらい経験を、「わが主はあなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えられた」とイザヤは語ります。 「立ち帰って、静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある。」と言われているのに、それを望まず自らの判断でその現実を解決しようと動いてしまっている。 結果はその逆になっているではないかとイザヤは語るのです。 主なる神は、「ご自身のもとに立ち帰ること、ご自身の計らいを信じて静かに待ち、願うこと」を求めています。 そして、「それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待っている。 主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。」 それが、「正義の神」であると語られるのです。 「正義の神」とは、裁きの神、公平な神に留まらず、「恵みと憐れみを与えようと待って、立ち上がる神である」と言うのです。 そのための「災いのパンと苦しみの水」であった。 その道を歩んでいる私たちを導き 待っておられるお方は 隠れることなく、目に見るお方となる。 その語られる言葉を耳に聞くことになる。 言い換えれば、既に目の前におられて、共に働いてくださっているお姿を私たちはやっと目の当たりに見るようになる。 今まで決して聞こうともしなかった「これが行くべき道だ。 ここを歩け、右に行け、左に行け」と背後から語られるみ言葉に気づくようになると言うのです。 イザヤは、語るべき相手方である南ユダの人々の姿に、自らの姿を見て取って、つらい体験として味わった「災いのパンと苦しみの水」を通して、主なる神の生きたみ言葉が自らの生きる力によって、叫び求めるご自身の民を支え、助け、救い出し、教え、気づかせ、導かれる。 そのみ言葉の命の力、その確かさが立ち帰ってくる神の民に対し恵みを与える。 それは、今考えつくようなものではなく、とてつもない考えようもないほどの神の恵みであることが、いずれ成し遂げられる。 そのための一連の神の働きであることを、今は実現していないけれども、はっきりと知らされていたのでしょう。 「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。 主はこの地を圧倒される。 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕きあがめられる。」(詩編46:9-11)と歌う確信にイザヤは至っていたのでしょう。