「すべてを支配される共にいる主」 創世記41章1~16節
「夢」は神のみ心を私たちに告げる重要なものであったのでしょう。 この「夢を解き明かす者」としてヨセフが描かれています。 最初にヨセフが見た「夢」は、「兄たちも、両親も皆ヨセフにひれ伏す」というとんでもない夢でした。 ただでさえヨセフは、父ヤコブから寵愛され腹立たしく思っている兄たちにとって、そのような「夢の解き明かし」を言えばどう思われるのか一目瞭然です。 父ヤコブはヨセフをたしなめ、兄たちはヨセフを殺そうと思うまでになったと言います。 ヨセフは一命をとりとめたものの、兄たちの謀り事によってエジプトに奴隷として売られてしまった。 連れて行かれたエジプトで宮廷の侍従長に仕え、その家の財産すべてを管理するまでになった。 ところが、その侍従長の妻の企みにより今度は、ヨセフが監獄に入れられることになった。 そこでも、ヨセフは監獄の看守長の目に叶い、囚人をすべて任されるまでになったと言います。 そこで、囚われていたエジプト王の給仕役の長と料理役の長の夢を説き明かしたのです。 ヨセフが語った通り給仕役の長は、宮廷に復帰することになった。 「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計られたからである」と記されています。 「解き明かしは、神がなさることではありませんか」と屈託なく語るヨセフです。 神が指し示すことを語り、神が必ずその通りに果たすとためらうことなく語るヨセフです。 このヨセフの姿に、主に信頼して生きる人間の原型を感じます。 それから二年後、エジプト王ファラオが七頭のよく肥えた雌牛とやせ細った七頭の雌牛の夢を見た。 再び、良く実った七つの穂と干からびた七つの穂の夢を見たと言う。 その夢は、エジプトの牧畜と農業の豊かさに対する不安を引き起こすものでした。 「ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めた」と言います。 ファラオにとって耳障りな悪い予感を進言する者はいなかったのでしょう。 そこで宮廷の給仕役の長は、監獄で夢を説き明かしたヨセフを思い出したのです。 神が用いられるすべてのものがじっと待たされ、隠され、一気に神の働きが噴き出るその時を満を持して待っている、これが「神の時、神の働き」ということでしょう。 一歩間違えれば、首をはねられるかもしれない危険な立場に立たされたヨセフは堂々と、「七年の豊作と七年の飢饉」という夢そのものの内容ではなく、神がなされることに照準を置いてファラオを前にして語り始めるのです。 これから起こるであろう激しい飢饉に備え、エジプトの人々を飢饉から救おうとする神のみ心をヨセフは受け取った。 そのために何をなすべきかをファラオに伝え、神のみ心に懸命に応えていこうとした。 自分には分からない神の大きな、深いみ心によるものであると受け止め、今与えられている現実を自分のものさしで計らず、そのみ心に精いっぱい従おうとした姿に映るのです。 ヨセフが兄たちの嫉妬によってエジプトに奴隷として売られてしまったことも、人の謀り事によって牢の中に閉じ込められたことも、人の記憶の中から忘れ去られたことも、すべて神のみ心のうちにある。 ヨセフには隠されていたが、神だけは忘れることなく共におられ計らってくださっていた。 神と共に歩む所には、私たちの想定外のことが必ず起こります。 それが引き起こす現実が良いか悪いかではない、幸いか災いかでもない。 神の意志が強く働いているその現実に圧倒されることなく、すべてを支配しておられる神を仰いで、祈りつつ、共にいてくださる神とご一緒にその現実に立ち上がることです。 その時に味わう「苦難、思い煩い、痛み、悲しみ」は決して悪いことではない。 それらを通して、神のみ心をしっかりと受け止めることができるように整えられるのです。 詩編は、「万軍の主はわたしたちと共にいます。 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。 主はこの地を圧倒される。」(46:8-9)と賛美しています。