「成し遂げられたものは」 ヨハネによる福音書19章28~30節
ヨハネによる福音書は、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)と語ります。 イエスが十字架上で「頭を垂れて息を引き取られる」直前に語られた二つの言葉、「渇く」という言葉と「成し遂げられた」という言葉から、父なる神が主イエスを通して表された「恵みと真理」を味わいたいと願います。 この時のイエスの十字架上の姿はイザヤ書53章が語っているとおり、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、無視されていた。 苦役を課せられても、かがみ込み、口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、口を開かなかった。」と言います。 このイエスが語られた二つの言葉には、惨めな敗北者のような姿には似つかない力強い確信めいた響きがあります。 この「渇く」という言葉は、絶望のどん底と思われるような「魂の渇き」を指し示します。 すぐ後で語られた「成し遂げられた」という言葉と相俟って、人間としての魂の渇きが、人間の肉体を背負われたイエスご自身の身に起こされた。 「神の言」そのものであられるイエスご自身に「今、ここに」実現したと、人間の死の直前に確信して発せられた魂の言葉として響きます。 ユダヤの「人々は、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプという植物に付け、イエスの口もとに差し出した」と言います。 マルコによる福音書では「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」と言い、ルカによる福音書では「兵士たちがイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突き付けながら侮辱した」とあります。 このヨハネによる福音書は、イエスは鎮痛剤としての没薬を混ぜ合わせたぶどう酒は拒まれたが、屈辱を加える嫌がらせの酸いぶどう酒はむしろ受け入れられたと語っているのでしょう。 イエスは、父なる神の民を取り戻す為に、その屈辱にまみれた杯を父なる神がお与えになった杯として受け入れられ、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたのでした。 この言葉には、人間の生涯の終わりは神のみ心の中の一つの目的の成就であり、終わりではない。 人間の可能性の一切が失われたその「終わり」から初めて始まるものがある。 その十字架上で主イエスが示してくださった「恵みと真理」を味わい知るようにと、息を引き取られる直前に心に留めるようにと導いておられるのです。 パウロが語る「あなたがたも罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」という、その順序を忘れてはならないのです。 終わりがあって初めて始まる、「死」から「命」へという始まりがあるのです。 「神との交わり」の復活です。 「恵みと真理」の大事な実体験です。 この段落の後には、主イエスのお姿によって表された「終わり」を体験した二人の変えられた姿が記されています。 「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて隠していた」アリマタヤの出身のヨセフと、「かつてある夜、人目を忍んでイエスのもとに来たことのある」ニコデモの、公然とイエスを埋葬する姿です。 ユダヤ人たちを恐れない、会堂から追放されることにも動じない、人の誉れを追い求めず、神の誉れを尋ね求める、新しく生まれ変わった「始まり」に生きるよう変えられた姿です。 主イエスが十字架上で宣言された「終わり」に、目と耳を傾けなければならない。 主イエスは、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを捨てる。 わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。 これは、わたしが父から受けた掟である。」(10:18)と言われていたのです。 そのために一切の侮辱も、一切の過ちや弱さもすべて背負われたのです。 主イエスの生涯の「終わり」が、私たちの救いの「始まり」となったのです。