「生き延びさせるための滅亡」 創世記6章9~22節
神さまが「すべてが良しとして創造された世界であるはずなのに、どうしてこのような世界になってしまったのかと後悔し、心を痛められた。」と言います。 「神の前に堕落し、不法に満ちていた。 すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。」と言わざるを得ないその現実に対し、神さまは「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」と言われる。 神によって形づくられたはずの神の似姿から遠く離れ、神によって愛されている自分自身の尊厳も、祝福されるべき人生をも破壊していく。 神さまからみれば、もうすでに終わっている。 この「ノアの洪水物語」を記した当時の祭司たちこそ、バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされ、エルサレム神殿を破壊され、望みを失ってしまった捕囚民として遠くバビロンの地に流された人たちです。 自分たちの誤った歩みから、こうした滅びの歩みを生み出したのだと自戒しつつも、神の憐れみに寄り縋っていこうと、この「ノアの洪水物語」を記したのではないでしょうか。 怒りに燃えた神が、ついにその怒りを爆発させて「地もろとも滅ぼす」と語られたのでしょうか。 恐ろしい神が激しい言葉を口にされたのでしょうか。 神の安息のうちに憩うはずであった祝福されるべき自分自身を破壊し続け、神との交わりを自ら断ち切って、自分のためだけに神の造られたものを利用しようとした。 そうした私たち人間の姿を神さまはご覧になって、心を痛め、苦しみ、忍耐し、自らに似せてつくられた人間を造ったことを後悔するほどまでに、嘆き悲しんで叫んだ言葉として、また、誰よりも深く私たち人間を憐れんで愛しておられる神さまが、すべてのものをご自身のもとに取り戻すために発した言葉として響いてきます。 神ご自身が「目を覚ますように」と裁き、その裁きの上に立つ「真の救いと解放」を与えようと決断されたみ言葉が「ノアの洪水物語」ではなかったでしょうか。 同時代に生きた人々が、「常に悪いことばかりを心に思い計っている」のに、「ノアは神と共に歩んだ」、「神に従う無垢な人であった」と表現され、神の前に正しい人、神のみ心に従うという一点において非の打ちどころのない人でした。 そのノアに、神は「木の箱舟をつくりなさい」と事細かく指示されたのです。 ここで言う「箱舟」とは、帆もなければ舵もない、ただ水の上を漂い流されていくだけで、自分でその行き先を定めることも進めることもできない、命じられた神さまに委ねて漂うだけの舟なのです。 指示された長さ、幅、高さは破壊されたエルサレム神殿とほぼ同じ大きさです。 エルサレム神殿が完全に破壊され、エルサレムから遠くバビロンの地に捕囚として流された体験を味わった祭司たちが、再び「残された者」として息を吹き返し再び神殿が起こされるという約束を信じて辛うじて生きていた者たちによって記されたものです。 「造れ、入れ」と命じられた「箱舟」こそ、再建されるべき神の神殿のしるし、「ノア」こそ、神に命じられたとおりにみ手の中に委ねた「残りの者」の象徴です。 再び神の真の神殿が起こされる時がくるという「希望のしるし」を信仰告白として語ったのです。 箱舟に入れられたノアたちこそ、破滅的な現実を目の当たりにし、神の正しい裁きを味わい尽くすことを強いられた人物、神の約束に生きていくことを箱舟の中で待った人物です。 神が取らざるを得なくなった滅亡です。 神の悲しみと憐みと忍耐によって、もう一度新しい出発のために生き延びるようにという愛の裁きです。 それを受け取って、すべてを飲み尽くした水の上で解放の時を待ち続けたノアたちの姿こそ、捕囚の身となった祭司たちの希望の姿です。 主イエスを裁かれたのは神ご自身でした。 罪に縛られて身動きができないでいる私たちを見かねて、主イエスによって新しい神の神殿がつくられ、箱舟の中だけでなくすべての人々に今や主イエスの十字架と復活によって「真の救い」が解放されているのです。