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「叫び求める選ばれた者の祈り」 ルカによる福音書18章1~14節

2025-03-16

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」と、「やもめと裁判官」のたとえを語られたのでした。 イエスはこの直前にファリサイ派の人々から、「神の国はいつ来るのか」と問われ、「神の国は、見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実に、あなたがたの間にある。」と言われ、イエスご自身こそ神の憐れみと恵みを示すものであると宣言されたのです。 弟子たちには、「多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」と、すべての人々の贖いのいけにえとなる決意をもって、その十字架と復活が待ち受けるエルサレムに向かう途上にあることを告げるのです。 その途上で、「再びご自身が現れる日がくる。 その日には、裁きと救いが同時に起こされるように、『残される者』と『集められる者』が取り分けられる。 ご自身の十字架と復活によってもたらされる恵みと憐みが支配する世界がやってくると宣言された直後に語られた「たとえ」なのです。 当時の裁判官とは、賄賂を受け取り、裁きを曲げる者であったようです。 「一人のやもめ」とは、お金も援助者もいないので、何度も繰り返しひっきりなしに訴える存在として語られたのでしょう。 「失望せずに祈り続ける」という「ひたすらな祈り」が不正な裁判官さえも貫き通す。 まして公正な裁き人であるならほおっておかれることはないと、いずれ訪れる「終わりの日」、「イエスが再び来られる日」に救いの完成を受け取るために「失望せず、祈るように」と愛する弟子たちに語られたのです。 「祈り」は単なる願いではなく、自らの意志をもって直接神の前に出ていくことです。 しつように繰り返すなら、自らの意志が神の前に曝け出されていくのです。 不正な裁判官が祈りのひたむきさにせき立てられ仕方なく応じるようなものではなく、神ご自身がみ心を果たす為に,忍耐して待ち、選ばれた人に祈る心を迫り、「祈り」を生み出されるのです。 「祈り」は神さまからの賜物です。 「祈り」をもつこと、「祈り」が与えられることは、もうすでに神のみ心に動かされ、用いられ始めているということです。 主イエスが「今の時代の人たちから排斥されることになる」事態となっても、再び来られるという主イエスの約束に立って、「目を覚まして祈りなさい。 信仰に至るまでに待ち望みつつ祈りなさい。」と響いてきます。 「祈り」は呼吸をしているように、神の息を受け止めるような生活にまでならなければならないと言います。 主イエスは「祈り」と「信仰」をほぼ同義語のように用いておられます。 直前に「神の国はいつ来るのか」と尋ねたファリサイ派の人たちの祈りの姿と、徴税人の祈りの姿を主イエスは語ります。 ファリサイ派の人たちの祈りは、人々の前で堂々と人々に聞かせるように、心の中では「ほかの人たちのような者ではないことを感謝します。 週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、そうした思いを秘めながら祈る姿であると言います。 人と比較して自分自身を見つめ、神と人の前で自らを誇り本当の自分の姿を見つめようとしない姿です。 主イエスは、神の御前に進み出ることさえ憚るような「わたしを憐れんでください」と祈る徴税人の祈る姿を、「神に義とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 「神に義とされる」とは、神の憐れみによって受け入れられるというただ一点だけであると言うのです。 やもめのひたすらな祈りと「憐れんでください」と叫ぶ徴税人の祈りが合わさって、「祈り」が「信仰」となって生活に息づいて、本当の自分の姿を知らされて、神の憐れみにすがる「祈りの姿」を愛する弟子たちに、これから起こる苦難と絶望と背信の誘惑を前にして、エルサレムへの途上に語られたのです。



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