「取り分けられる者の恵み」 ルカによる福音書17章20~37節
ファリサイ派の人々とイエスの、「神の国はいつ来るのか」という問答が記されています。 この問答が行われたのは、「イエスはエルサレムへ上る途中」であったと言います。 ルカによる福音書は再三にわたり、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」 あるいは「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられた。」 「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。 人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」とまで、イエスは12人を呼び寄せて語るのです。 ルカによる福音書は、イエスはご自身の十字架の死とそれからの復活の出来事に立ち向かうため、エルサレムに向かっている。 エルサレムに上る旅をしている。 その途上、「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」とまで言われ、三度目の「十字架の死と復活」の予告をするのでした。 しかしながら、12人の弟子たちは、「これらのことが何も分からなかった。 彼らには、この言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった。」と言うのです。 その旅の途中、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている10人がイエスを出迎えたと言います。 「重い皮膚病」とは、ユダヤの祭儀上不浄とされる病いでした。 社会から隔離された場所で暮らさなければならない。 一般の人が近づいた時には、「汚れた者」と叫んで、その存在を知らさなければならなかったのです。 自分ではどうすることもできない彼らは、すがる思いで「どうか、わたしたちを憐れんでください。」とイエスに叫ぶのです。 イエスはその姿をご覧になり憐れまれて、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」と言われたと言う。 彼らはそのイエスの言葉に躊躇なく、何の疑いもせず言われたとおりに祭司のところに向かった。 その途中で体が癒され、清くされたと言う。 イエスは彼らの体を回復するだけでなく、祭司に癒されたことを認めてもらって、清められたと社会的に明らかにし、社会復帰の道までも開かれたのです。 問題は、その後のことです。 その癒された人たちのうちの1人だけが、「自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」 サマリア人であったと言うのです。 選びの民であるユダヤ人でもなければ、律法の戒めを固く守っていた自分の信仰の確かさでもない。 イエスという人物に出会い、触れて、その交わりを通して味わったイエスの確かさに思わず導かれていった。 そのイエスを主であると信じようとした信仰に、このサマリア人は導かれたのではないでしょうか。 重い皮膚病が癒されただけの9人と、イエスのもとにひれ伏して感謝した1人が取り分けられている事実が示されているのです。 イエスはそのことを、「あなたの信仰があなたのからだを癒した」と言うのではなく、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。 イエスは、「神の国は、見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実にあなたがたの間にある。」と言われているのです。 すでに訪れている神の国に気づかず、隠されてしまっているものを、イエスに出会い、触れて、交わって、「今、ここに」神の国が訪れていることに気づかされて、神に感謝しイエスにひざまずく者が取り分けられる。 「ひとりは連れて行かれ、他の一人は残される。」、その取り分けられる「真の信仰」とは何かを、イエスはエルサレムに向かう途上で、十字架の死と復活がこの身に起こされるという固い覚悟をもって愛する弟子たちに語っておられるのです。 見える形で現れることだけを期待するなら、9人の重い皮膚病を患っている人たちと同じです。 イエスに触れることによって、すでに置かれ与えられている賜物に気づき見えるようになるのです。