「神の安息という祝福に与る」 コリントの信徒への手紙二4章14~18節
「天地創造の由来」には、第一の日から第六の日までの六日間で、人が生きる「時」と「場所」、人の生きる舞台が神によって創造され、神はお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と言われ、この第七の日に、「神はご自分の仕事を完成され、安息なさった」ので、第七の日を「神は祝福し、聖別された。」と言います。 神は六日間ですべてを完成され、この七日目の日を、再び迎えることのない日として、第一の日から第六の日までとは全く違う一日として分離され、安息という形で完成された。 神によって創造されたみ業を憶え、神の安息に私たちも預かり、神の祝福を感謝して喜んで受け取る日とされたのです。 神のなさったすべての業は第七の日に向けてなされたものではなかったか。 神のこの祝福に覆われた命、神の国へと向かって私たち人間が憩うことができるようにと、神は第七の日を設けられたのではないだろうか。 そうであるのに、私たち人間が神から与えられたもので生きていこうとせず、神によって与えられている場所を、自ら所有するものであるかのように支配することで、神のもとから離れてしまった。 そこで、私たちを代表してノアでありアブラハムに象徴される「信仰」を注いでくださった。 それでも揺れ動く私たち人間を憐れんで、主イエスを私たちのもとにお遣わしになって、「信仰」によって神のもとに立ち帰る唯一の道を切り開いてくださったイエス・キリストと共に、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、第七の日の神の安息という祝福に与るようにと、忍耐しつつ招き入れてくださる。 このことに気づかされた最初期のキリスト者が、主イエスの十字架の死から復活された日として、週の初めの日に主なる神に賛美し礼拝をささげて「神の安息」に与る日としたのです。 パウロは、「地上の住みか」と人の手で造られたものではない「天にある永遠の住みか」があることは知っています。 「天にある永遠の住みか」をこよなく願って、「地上の住みか」で苦しみ悶えていますと言います。 死ぬはずのものが新しい命が授けられるようにと、父なる神が御子を地上にお遣わしになって「永遠の住みか」に至る道を切り開いてくださったことを知っている。 だからこそ、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいくことができるようになった。」 「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。 だから落胆しません。」と言うのです。 その理由の一つは、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると知っているからだ。」 もう一つの理由は「多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるためだ」と言うのです。 神の子として裁かれるためではなく赦されて御前に立たせてくださる「約束と希望」、私という小さな存在の上に神の働きが現れ出ることになるまでに主イエスに結ばれること。 だから「落胆しない」と言うのです。 「たとえ外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされていきます。」 イエス・キリストと共に、イエス・キリストのゆえに、常に新しく創造してくださる、日々新たにされていく。 神のもとから注がれる新しい命を、信仰によって砕けた魂によって受け取っていく。 衰えていく「外なる人」を支えながら、日々新しくされている「内なる人」をも宿しながら、主イエスに従ってみて味わっていく。 そこに恵みと希望があると言うのです。 「一時の軽い艱難が、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらす。」と断言するのです。 私たちは、神によって日々新しくされていく「信仰」に生きる者です。 主イエスと共に神の子として一緒に神の御前に立つ者です。 「神の安息」という、消えてなくならない「祝福」に憩うために立ち帰る者なのです。 そのために主イエスは近づき招いてくださっているのです。