「この目で見た救いによる慰め」 ルカによる福音書2章22~35節
次々と、神のみ言葉通りに事が進んでいく「世界で最初のクリスマス」の出来事に、ルカによる福音書は賛美に溢れています。 主の天使たちの「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という賛美が起こされ、ザカリアにも賛歌が生まれ、マリアにも賛歌が生まれ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と身を委ねる覚悟をするのです。 羊飼いたちにも、「見聞きしたことがすべて天使が話したとおりであったので賛美が生まれたのです。 主イエスが生まれて40日が経過した時のことです。 イエスの両親はモーセの律法の定めに従って、神殿に向かったと言いますから、がんじがらめの律法の定めの中、そして、そのささげものが「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」と言いますから、イエスは貧しさの中に生まれてくださったということです。 そこにシメオンという人物が登場します。 「正しい人、信仰があつい人、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた人、聖霊がとどまっていた人」そして、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた人。」と紹介されています。 直訳すると、「主からのメシアを見る前には死を見ることはないと聖霊から約束されていた人」となります。 生きている間に「メシア・救い主」に出会うと聖霊によって約束されていたということです。 大勢の人で混み合う神殿に、イエスの両親は律法に従って幼子イエスを伴って境内に入って来た。 一方、シメオンもまた、聖霊に導かれて神殿の境内に入って来た。 シメオンはなぜか、人混みの中にいるイエスの両親に抱かれた幼子が、シメオンの目に留まった。 その両親に近寄って来て、その幼子をシメオンは抱いたと言います。 聖霊の導き、神のみ言葉による働きのとおりに進んでいく神のご計画でなければありえないことでしょう。 偶然の出会いとは思えません。 その時、シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」と言ったという。 シメオンに与えられていた務めは、主が遣わすメシア、主なる神の救いの働きを見て神を賛美することでした。 シメオンは、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言い、「万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」とまで言うのです。 シメオンには聖霊が宿り、すべてが見えていたのでしょう。 イエスの両親に、「主のみ言葉どおりに進んでいることを目の当たりにすることができる者は幸いである。」と祝福すると同時に、「信じることのできない者にとっては躓きの石となり、信じて受け入れる者には隅の親石となる。」と預言するのです。 もうひとつには、シメオンは神のみ言葉を信じて、この世においても「救い」がもたらされると期待し、準備をし、その救いを待ち望んでいた人です。 シメオンは「死」を待っているのでも、「死」に向かって生きているのでもありません。 聖霊を内に宿して、それに導かれて、「救い主」に出会い、抱きかかえた人物です。 この幼子を「救い主」として誕生させ、十字架に架けて復活させる、神のご愛がすべての民を覆いつくすという「救い」による「慰め」を、まだ霊の目によって見ることのできないマリアとヨセフに告げた最初の証人なのです。 復活の際のエマオに向かって傷心の旅を続けていたふたりの弟子たちと同じです。 霊の目が開かれた二人は、時を移さず、エルサレムに急ぎ立ち戻って、故郷で復活されたイエスを見聞きしたことを告げ知らせようと賛美しながら元の場所に、新しい務めを帯びて戻って行ったのでした。 「主を賛美するために民は創られた。」(詩編102:19)と言われているとおりです。 私たちもまた、霊の目が開かれるなら、「主イエスを見た。 味わった。 御言葉どおりであった。」と賛美する「主イエスの救いの証し」の姿に変えられるのです。