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「新しくされるもの」 ルカによる福音書1章5~20節

2024-12-08

 ルカによる福音書だけが主イエスの誕生の直前に、バプテスマのヨハネの誕生の次第を記しています。 バプテスマのヨハネは、「最期の預言者」とも言われています。 それと同時に、「最初の主イエスの証人」とも言われています。 ヨハネ自身は「悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。 その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」 「自分はメシアではない。 自分はあの方の前に遣わされた者だ。 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と告白するのです。 ヨハネの父親はザカリアと言い、多くの祭司のうちの一人です。 母親はエリサベトと言い、子供が与えられず、すでに子をもてる年齢を越していた。 二人は熱心に「子を与えてくださるように」と神に祈っていたと言います。 ある日、ザカリアが祭司の務めを行っている際に、「主の天使が現れ、それを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」と言います。 神と出会うことを願っていなかったのでしょうか。 神の使いは恐れるザカリアに、「恐れることはない。 あなたの願いは聞き入れられた。 あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」と告げられたのです。 今になって自分の子どもが与えられると告げられてもにわかに信じることのできなかったザカリアは、「何によって、それを知ることができるでしょうか。 わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と神に迫ります。 長い間祈って待っていたのに、子供を与えてくださらなかった神に、その「しるし」を見せてくださいと迫るのです。 神が約束されたことは、私たちの信念や努力によって果たされるものではないでしょう。 神の恵み、深いみ心から生まれ出てくるものでしょう。 神が何も働いていないように思わされる時が、人生の節々では必ずあります。 苦しみや悲しみの只中で、神が共におられることを忘れてしまう時があります。 右往左往し漂う私たちとて、後で神が変わらず働いてくださったことに気づかされる時があります。 共にいてくださったことを思い起こす時がくるのです。 そのような神に事実として出会い、受け入れ、信じる時が必ずくるのです。 私たちは神を信じることができたから、救われたのでしょうか。 信じることのできなかったザカリアに、神はザカリアの口を閉ざすという「しるし」を与えられたのです。 ザカリアが神の約束を信じなかった罰として、この「しるし」が与えられたとは思えない。 むしろ、神の約束を信じる者へと導くための「しるし」でしょう。 神の使いは、「この事の起こるまで話すことができなくなる。 時がくれば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と告げ、その時が来ればあなたは新しくつくり変えられると言われたのではないでしょうか。 神が告げたとおり、妻エリサベトは月が満ちて男の子を産み、人々は喜び合い、口のきけないザカリアは字を書く板に、「この子の名はヨハネ」と神の使いに言われたとおり書いたと言う。 約束のみ言葉が事実としてザカリアの心に刻まれた瞬間ではなかったでしょうか。 新しくつくり変えられたザカリアの口は開かれ、神への賛美とわが子の務めを預言するまでになったのです。 この直後にマリアにも主イエスの誕生が告げられ、新しく整えられたエリサベトが、挨拶に来たマリアを自らの体験から力強く励ますのです。 私たちの神は一人一人の名を呼んで出会って、それぞれにふさわしく祝福に招いてくださるお方です。 私たちにとって不都合な受け入れ難い出来事と思わされても、神の周到な準備と隠されたみ心と働きが込められているのです。 しっかりと神の約束を受け取って、支えられて、神のみ子イエスを仰いでご一緒に歩んで参りましょう。 神がみ心を込めて贈り届けてくださっているものを、私たちが受け取り損ねている神の側の忍耐があることを忘れてはならないのです。



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