「クリスマスの喜びとは」 ガラテヤの信徒への手紙4章1~7節
旧約聖書では、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と言われる。 偉大な指導者モーセが神から召命を受けた際には、「モーセよ、ここに近づいてはならない。 あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」とまで言われ、モーセは恐れて顔を覆ったと言う。 ほど遠い存在であるかのように思わされる神が、今やイエス・キリストによって語りかけてくださっている神、だれ一人例外なく出会い味わうことのできる「近しい神」であるように思わされます。 創世記の最後には、イスラエルの人々がエジプトに移り住んだ経緯が記されています。 アブラハムに神が約束したとおり、イスラエルの人々は力を持ち始めエジプト中に溢れるまでになったのでした。 その脅威を感じたエジプト王は、イスラエルの民に強制労働を課し、奴隷として苦しめたのです。 ついには、イスラエルの民の出産に対し、男の子を殺すという命令を降すまでになったのです。 そのような時に生まれたのがモーセでした。 モーセの両親はその誕生を三か月間隠していたと言います。 隠しきれなくなった母親は、パピルスの籠に防水の処置をしてその中に赤ちゃんを入れ、ナイル川の葦の茂みの間に置いた。 自分の力ではどうすることもできないこの赤ちゃんの行く末を主に委ね、自分の娘に遠くから様子を見させていた。 その赤ちゃんを拾い上げたのが、そこで水遊びをしていたエジプトの王女であったと言います。 その赤ちゃんがイスラエルの赤ちゃんだと分かった王女は不憫に思い、王女の子どもとして育てるようになった。 その様子を一部始終見ていた姉が「イスラエル人の乳母を呼んで参りましょう」と言い、実の母親を連れてくるのです。 モーセはその幼少期、エジプトの王女から委託を受けて、実のイスラエル人の母親の手によって育てられるという数奇な道を歩むことになるのです。 エジプト王は、ナイル川を赤ちゃんを投げ込む殺戮の場としたが、神はその川から赤ちゃんを救い上げ、命を救い、エジプト王の宮廷の中で教育を受けさせ、指導者としてふさわしい器として育てるのです。 切羽詰まった母親の選択の中にも神は共におられ、見えていないところでご自身の救いの約束のために働いておられるのです。 この「ほど遠い神」がたった一人の人物を選び出し、イスラエルの民の奴隷状態から解放の恵みを与えようとして用いられるのです。 パウロは新約聖書の時代に生きるキリスト者として、神のみ子でありながら人として遣わされた主イエスを通して、「ほど遠い神」から「近しい神」への大転換の喜び、クリスマスの喜びを語るのです。 私たち人間が神の恵みにふさわしくなったからではなく、神ご自身の恵みと憐みによる真の救いの出発点が、主イエスの出現、クリスマスの突然の出来事であったとパウロは語るのです。 福音の恵みとして、神の国の世界から神がみ子を遣わした。 同時に、人の世の世界の「女性から」、またこの世の人々が縛られていた「律法の下に」、そして神の国の世界とは相容れないこの世の諸霊の支配の真っ只中に、この世の人間と同じ子として神のみ子が生まれ出たと言うのです。 「律法の支配下にある者を贖い出すため、わたしたちを神の子となさるため」に現れ出てくださった。 これが神の救いの出来事の始まりであったと言うのです。 この喜びは主イエスがなされていたように「父よ」と呼びかけることができる喜びだとパウロは言います。 律法の下にあった厳しい神であるからこそ、「ほど遠い神」から味わい触れることのできる「近しい神」へと大転換された喜び、恵みとしか言いようがない喜びにパウロは満たされているのです。 「あなたはもはや奴隷ではなく、神の子です。 神の子であるなら、この世の諸霊に支配されている只中において、神によって立てられた相続人である。」と言うのです。 神の子となった喜びは、この世の諸霊に覆われている所にこそ指し示すことができるのではないでしょうか。