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「表され、知らされ、全うされる愛」 ヨハネの手紙一4章7~21節 

2024-09-15

 コリントの信徒への手紙一13章のパウロの「愛の賛歌」では、いずれ消えてなくなってしまうものではなく、いつまでも残るものとして、この「神の愛」を知ること、味わうことが「最高の道である」と断言しています。 これとは別に、ヨハネが語るもうひとつの「愛の賛歌」がここに記されています。 「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている。」(7)と言います。 神は愛を持っておられると言うのではなく、愛そのものであると言うのです。 神は愛そのものであるから、私たちもまた「互いに愛し合いましょう」とヨハネは呼びかけるのです。 神との交わりを「遮るもの、隔てるもの」がこの世にある。 聖書はこの「神のもとから離れてしまっている状態」を「罪」と言っていますが、これを取り除くことは神以外にはできないのです。 これを取り除くためには、神が決して相容れることのできない「罪」を正しく裁き、神の怒りをそこで終わらせなければならないと言う「宥めの側面」があります。 神は正しいお方であるがゆえに、この「罪」の状態を赦すことも、相容れることもできない怒りをもって対峙しなければならないお方なのです。 そこから私たちを救い出すためにはもうひとつ、神の赦しという側面、その一切合切を背負わせるために御子であるイエス・キリストを遣わされたという「贖いの側面」があるのです。 この神のご愛と神のご真実という二つの側面が折り重なって起こされた出来事、これがイエス・キリストの十字架の出来事なのです。 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。 その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(9-10)と語っているとおりです。 このイエス・キリストの十字架の出来事から離れた「神の愛」をいくら宣べ伝えたとしても薄っぺらいものとなるでしょう。 神のご愛に裏打ちされた神の厳しい正しい裁きがあるのです。 この神の厳しい裁きに裏打ちされた、憐れみ、恵みとしか言いようのない「神のご愛」がここに示されているのです。 私たちはこの神との交わりが始まりますと、人が神に近づいて行けば行くほど、神をとことん味わうことになります。 なぜなら、神から注がれる聖霊という賜物による働きが、様々な知恵と力、そして出来事を起こしていくのです。 神は愛そのものだと言われる。 それが私たちの内にとどまるなら、神の愛が私たちの内にとどまることが分かるだけでなく、それが動き出し働き出すというのです。 互いに神の愛をもって愛し合う時、その交わりの中に目に見えない神が共におられることが見えてくる、気づくことになる。 「神の愛がわたしたちの内で全うされる」と言うのです。「全うされる」とは、成し遂げられるということです。 私たちを通して、神の愛が完成されると言っている。 これほどの尊い人生がこの世にあるでしょうか。 「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。 御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。」(13-14)と言います。 注がれた聖霊によって、私たちが神の内にあること、神が私たちと共にあることを確信させる。 目撃を完了した事実を証言すると言うのです。 私たちの信仰は、この目撃証言と復活されたイエスとの出会いの事実に基づいているのです。 この神の愛には流れがあります。 先ず神から私たちへと神の愛は流れてくる。 その愛が今度は、私たちの兄弟姉妹へと流れていく。 私たちが神の愛の内にとどまる限り、その神の愛の流れが全うされていくのを喜んでおられる神を、この地上においても見ることができるのです。 この神の愛の流れの一端を担う者として、この世に私たちは生かされているのです



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