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「さあ、立て。 ここから出かけよう。」 ヨハネによる福音書14章25~31節

2024-05-19

 「最後の晩餐」の際に語られたイエスの言葉には、深い備えを感じます。 場所は、危険が迫っていた「とある家の二階座敷の部屋」です。 イエス御自身がこの「晩餐」の真の意味を告げようと、用意周到に準備し弟子たちを招いた最後の食事の場です。 弟子たちにとってみれば、自らの存在、生涯を賭けてすべてささげて従ってきたそのイエスが、これからいなくなってしまう。 その理由が理解できない。 それが現実となり追い詰められ、エルサレムの片隅にある部屋に閉じこもっていた弟子たちです。 だれ一人として弁護する者がいないという絶望の淵に追いやられ孤立した弟子たちです。 部屋から出て行くことすら勇気のない弟子たちに、聖霊が降ったと言う。 ある日突然、部屋から出ただけに止まらず、霊が語らせるままに語り始めたと言うのです。 三度もイエスを知らないと裏切ったペトロが、今では多くの聴衆を前にして声を張り上げ、イエスの語られた福音を語り始めた。 ここまで彼を一変させ、有無を言わせず神ご自身のために用いらせたこの「聖霊」とは何者でしょうか。 この聖書箇所では、「弁護者、真理の霊」と表現します。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言います。 イエスがいなくなったその代わりに、イエスの名によって働かれる存在です。 言うなれば、イエス・キリストは父なる神のもとへ行く「道筋」、聖霊はその「道案内」ということでしょうか。 この「聖霊の働き」の第一に、「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言うのです。 しかるべき時に必ず、イエス・キリストの言葉に遡らせてくださる、思い起こさせてくださる。 み言葉を思い巡らし味わうのなら、神の御心を悟り知る時が必ずくるのです。 「聖霊の働き」の第二に、「すべてのことを教える」と言います。 聖霊ご自身がそうであるように、「聞いたことを悟って、これから起こることをあなたがたに告げる。」と、その時に適って、それぞれにふさわしくいつも新しい教えとなって迫り、私たちの魂に新しく跳ね返ってくる。 「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」とイエスは言われているのです。 私たちが気づいていようがいまいが、事前にイエス・キリストの名によって聖霊を通して、事前に用意周到に準備されているのです。 私たちは招かれて、この「強いられた恵み」にあずかることができるのです。 神ご自身が働かれて、イエス・キリストの語られた言葉を思い起こさせ、かつて味わった神の恵みの意味がここにきて初めてよみがえってくる。 今悟るべきこと、今果たすべきことに迫られる。 今、それが新しい教えとなって目が開かれ、耳が開かれる。 ありとあらゆるものが用いられて、あらゆるつながりや交わりが生かされ、目に見える形として現れ出るのです。 「事の起こる前に」、イエスは私たちに語りかけ、すでに備えは果たされているのです。 私たちはそれに委ねていくばかりです。 「わたしは去っていくが、また、あなたがたのところへ戻って来る。」 「わたしは、平和をあなたがたに残し、世が与えるようにではなく、わたしの平和を与える。」と言います。 去って行かれたイエスの替わりに、残された「聖霊による賜物」として与えられる「イエスの平和」です。 これを最後の晩餐の時に、愛する弟子たちに「事が起こる前に、わたしの平和を残す。 わたしが平和を与える。」 私たちは備えられたその「強いられた恵み」、残された「聖霊による賜物」である「イエスの平和」に招かれているのです。 この「残された平和」を味わう者が、イエスの平和を造り出し持ち運ぶのです。 「心を騒がせるな。 おびえるな。 さあ、立て。 ここから出かけよう。」というみ言葉が蘇って、足取りの重い弟子たちを奮い立たせたのです。 私たちにも降る「残された賜物」をしっかりと受け取りましょう。 失望してはならないのです。



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