「救いの恵みに留まる」 ヘブライ人への手紙2章1~4節
「そうでないと、押し流されてしまう」という言葉が心に残ります。 知らず知らずのうちに潮に流されてしまう舟の危険性に対する警告のように感じます。 少しずつ主のもとを離れていくと、み言葉も賛美も祈りも信仰も脇へ追いやられてしまう。 自分が漂流していることに気づかないまま座礁しないようにと、この手紙は「しっかり信仰の碇を降ろしておくように」と迫っているようにも感じるのです。 「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。」と言い、新改訳聖書では、「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」と言います。 この手紙が記された頃は、ローマ帝国の激しい迫害が「外からの脅威」としてありました。 「内における脅威」は、時が経過し、慣れ親しんだユダヤ教に逆戻りしようとする「背教者」の存在であったでしょう。 初代のキリスト者の熱意や喜びや感謝が薄れ、信仰の力が失せていく。 この漂流する状態を察して、この手紙は「わたしたちは聞いていたことをしっかり心に留めて、押し流されないように」と繰り返し訴えるのです。 漂流しないためには、何をもって「碇」とするのでしょうか。 この手紙は1章の冒頭のわずか3節だけによって簡潔に「それは御子である」と言明するのです。 神は、かつては預言者たちによって語られてきたが、「この終わりの時代には、御子によって語られました」と言います。 私たち人間が捜し出して神を見つけ出したのではない。 神が自ら探し求めてくださったからです。 人間の救いの働きの主導権は一切、神のもとにあるのです。 「神は、御子を万物の相続者として定め、また、御子によって世界を創造された。」と言います。 この「御子」を「神の栄光の反映」と表現しています。 父なる神の輝きを、その姿、その語られる言葉、その生き様によって自ら放つお方であるということです。 また、「神の本質の完全な現れ」とも言います。 「御子」には、神そのものであるという刻印が押されているということです。 「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる」とも言います。 この地上の世界を執り成し、支えておられるということです。 また、私たちの罪を贖い、救いを示され、その働きを成し遂げたがゆえに、父なる神の右の座に着くことが許されたお方であるとも言うのです。 神としての光を自ら放つ、神のみ言葉を語る「真の神」である。 それと同時に、父なる神の光を人間の人格とその働きを用いて反射させる「真の人間」であると言うのです。 「だから、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいてはならない。」と言うのです。 心を新たにして、福音の言葉を聞き取り直しなさい。 恵みとして福音の言葉を聞き続けないと、過去に逆戻りしてしまう。 今が「恵みの時」、「救いの時」として、この「御子」を受け入れ、信じて結ばれるようにとこの手紙は迫るのです。 私たちもまた「御子」と同じように、「神の子」として神の栄光を讃える礼拝によって神の栄光を現すことができるのです。 この「救いの恵み」を私たちの心のうちに留めるために、注意を払うべきものは「主イエスが最初に語られたこと」、そして、主イエスが最初に語られたことを「聞いた人々によって確かなものと示されたこと」です。 主なる神ご自身も、私たちの生涯を用いて証ししてくださると言うのです。 この漂流から救う警告の教えを聞く耳を開いていただきましょう。 それが信仰の碇を降ろすことになり、救いの恵みに留まることになるのです。 父なる神と「御子」の働きも、その「御子」から聞かされた人々の働きもすべて神の愛なる働きです。 一人残らず取り戻そうとされる神のみ心の働きです。 「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げと「御子」、使命を必ず果たす。」のです。