「命をかけて神に近づく者」 エレミヤ書30章18~22節
南ユダ王国がまさに滅びに向かってまっしぐらの時です。 主なる神は預言者エレミヤに、今まで語られた滅びの預言とは正反対の預言を告げます。 「わたしがあなたがたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。 見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る。」と言われるのです。 ご自身が語られる言葉に責任をもつので記しなさいと言い、記された言葉に触れることを主なる神は強く望んでおられるのです。 語られる預言が成し遂げられたなら、「回復される、再建される、昔のようになる、固く立てられる」と、その有様を記しています。 エレミヤが率いるイスラエルの民が起こしなさいと言うのではなく、主なる神が直接「憐れむ、栄光を与える、報いる」と言われているのです。 ここに言う「ヤコブの天幕の繁栄を回復し」とはどういうことでしょうか。 イスラエルの族長時代の遊牧民としての移住生活を思い起こさせます。 神と共に旅をして生きる、神に導かれ神を仰ぎながら歩む神の民の本来の姿に立ち帰るということです。 主なる神ご自身が囚われていた人々をもとに戻す、滅びに向かっていた人々を転じるのは、私によってしかできないことであると言われるのです。 これは単なる回復ではありません。 故郷に帰ることだけ、昔の生活を取り戻すだけのことではない。 人の手によってつくられたものに目や心を奪われてしまったイスラエルの民を、本来の主なる神の方に向けさせる。 記された神の言葉に再び集まり、神を賛美し、感謝の祈りをささげ、神の言葉に聴き従う。 礼拝する群れ、神に依り頼む信仰の群れに変えられるということではないでしょうか。 神によって裁かれた滅びを経て、その廃墟の丘のうえに、神の正しい裁きの土台のうえに立てられる救いの預言が、破壊を経て復興が果たされるというのです。 「昔のようになる」とは、繁栄したダビデ王の時代やソロモン王の時代に戻ることではない。 取り戻されるべき昔は、礼拝する神の民の回復です。 賛美の歌声、感謝と喜び、神の恵みと約束に対する信頼と確信です。 出口の見えない、滅びに向かっているように思わされる時こそ、新しい「回復の預言」に耳を傾ける時です。 22節に「こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。」と言います。 主なる神が、「わたしの民となる。 わたしのものである。 救い出し、回復させる。」と約束してくださっているのなら、耐えられないと思われるような苦悩の中にあっても、傷の痛みが激しくともなうようなところにおいてでも、私たちはこの神の約束への信頼と確信があるなら、神の民として甘んじることができるのではないでしょうか。 このみ言葉の前に、「ひとりの指導者、治める者がわたしたちの間から、私たちの中から出る。 主なる神が彼を近づける。 そして、彼は命をかけてわたしに近づく。」とあります。 「彼」とは、群れを率いる者のことです。 エレミヤであり、イザヤであり、エゼキエルであり、モーセであるのでしょう。 彼らはすべて、主なる神によって選び出され、引き寄せられ、厳しい務めを与えられています。 しり込みをしながらも彼らは引き寄せられるままに、自ら命をかけて近づいていくのです。 神の懲らしめを受け、破壊と滅びを経て、救いの恵みがあることを群れと共に知らされるのです。 エレミヤは、「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。 すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。 彼は公平と正義をもってこの国を治める。」と、新しい契約が結ばれ、新しい神の民が生まれると預言するのです。 エレミヤによって預言された新しい契約は、イエスの十字架の血により調印されたのです。 新しい救いは、十字架によって成し遂げられたのです。