「わたしを強くしてくださる方」 テモテへの手紙一1章12~17節
エフェソの教会の様々な課題に悩みつつ取り組む若き指導者テモテに対し、パウロはこの励ましの牧会書簡で、「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。」と、自分自身の強い思いを語ります。 旧約聖書に記されているアブラハムやモーセに対する神の召命、預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエルに対する神の召命の出来事を考えてみてください。 神に選ばれ、不意に呼びかけられ、自らの弱さを突きつけられ迫られる。 神の求める務めを与えられ、神が遣わされるところに遣わされる。 恐れ戸惑うところに、神の約束と保証の言葉が告げられる。 神が共におられることをその生涯において実感させられる。 見た目には決して恵まれた生涯とは思えないけれども、主なる神と共に歩んだという喜びと感謝に満ち足りた地上の生涯を彼らは満ち足りて終えているのです。 ペトロに代表される使徒たちの生涯もまた同じように、イエス・キリストに選ばれ、呼びかけられ、迫られ、新しくつくり変えられてイエスによって授けられた使命を感謝と喜びをもって歩み通したのです。 パウロもまた同じように、主イエスに「忠実な者と見なして務めに就かせてくださったこと」、以前のパウロが犯した過ちが赦されて「憐れみを受けたこと」、「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられたこと」を感謝するのです。 以前のパウロは、「神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」と自戒しているように、律法をないがしろにするキリスト者を徹底的に迫害したのです。 「わたしは、その罪人の中で最たる者です」とまでパウロは吐露しています。 そのパウロがイエスに選ばれ、呼びかけられ、自らの罪深さを迫られ、霊の目が開かれ、イエス・キリストに仕える使徒とされた。 お陰で、ユダヤ人たちからは裏切者呼ばわりされ、キリスト者からは恐れられる生涯を送ることになったのです。 自らの過ちに気づかされたことだけでなく、憐れみを受けてそれを赦されたこと、赦されただけでなく忠実な者と見なされイエス・キリストに仕える務めに就かせていただいたことを、「わたしを強くしてくださった」と表現するのです。 パウロが熱心に求めたからでも、涙を流して悔い改めたからでもなく、自分で自分を強くしたのではなく、イエス・キリストによって呼びかけられ、憐れみを受け、無条件のご愛によって呼び寄せられたからです。 ここにパウロの喜びの感謝と喜びの源があるのです。 主イエスが強くしてくださっているのに、逆らって自分をつまらない者、弱い者と扱ってはならない。 むしろ、自分の弱さを知り尽くすように、そのうえでイエス・キリストによって強くされた自分を大切にするようにと願っておられるのです。 そのような者がイエス・キリストによって強くされたという自覚のうえに立って、イエス・キリストに仕える者として生かされるようにと招いておられるのです。 16節に、「わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」とあります。 パウロを強くしてくださった同じ主イエスが、テモテをも強くしてくださる。 それは、大事な神の務めを果たすためである。 神とのつながりを保つようにと、礼拝を感謝と喜びをもってささげている私たちすべてを強くしてくださるためなのです。 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(2:4)とパウロは言います。 あふれるほど与えられている恵みを伝えていくこと、そのために与えられている信仰、注がれている神のご愛、憐れみなのです。 私たちの地上の歩みは、この信仰とご愛と憐みに支えられて、神の務めのために生かされているのです。