「神を見るとは」 コリントの信徒への手紙一13章12節
「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。 しかし、そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」 「今」は一部分しか、不完全にしか見えないが、「そのときには」全体が、完全に見えるようになる。 しかるべき「そのときには」、神が私たちを知っておられるようにはっきりと私たちは神を知るようになる。 神に知られることによって、私たちは神に知られていることを確信することになるとパウロは語ります。 私たちは様々な喜びや悲しみ、成功や挫折を通して神さまがどのようなお方であるのかをそれぞれに受け取っています。 しかし、災いとも思える解決の糸口さえ見出せない状況であるなら、神に信頼し続けることは至難の業でしょう。 「今迫られているこの痛み、苦しみはなぜですか」と問い質したくなります。 旧約聖書に記されているヨブという人物の凄まじい生涯が、このことを物語っています。 ヨブは「無垢な正しい人、神を畏れ、悪を避けて生きていた。 家族にも恵まれ、多くの財産を抱える東の国一番の富豪であった。」と言います。 これにサタンは、「ヨブが利益もないのに、神を敬うでしょうか。 神がすべて祝福されているからだ。」と、ヨブから家族や財産を奪うことを唆し、ヨブはすべて取り上げられ妻とふたりだけとなってしまうのです。 その時のヨブの言葉です。 「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。」 サタンは諦めず更に迫ります。 ヨブの体を奪うことを唆し、全身に皮膚病にかからせたと言います。 あまりの悲惨な姿に、「どこまでも無垢でいるのですか。 神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」と呟くヨブの妻に語ったヨブの言葉です。 「お前まで愚かなことを言うのか。 わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」 財産や家族が失われようが、自身の体が壊されようが動揺することのない、神への信頼を失わないヨブでした。 ただ、なぜこのような苦しみに神が遭わせられるのかその理由が分からなかった。 「面と向かってその理由を答えてほしい。」と神に求めるヨブの姿を見た3人の友人は、因果応報の世界観から神の戒めに従うようにとヨブに悔い改めを迫る。 サタンは、ヨブの信仰は人間的な幸いを求める信仰であると迫るのです。 ヨブは神を依然として信頼するがゆえに、執拗に苦難の理由を神ご自身に求めるのです。 そのヨブに対する神の応答が「沈黙」でした。 私たちが神と出会う準備の時、私たちが神と直接出会うための備えの時です。 ヨブは待ち続け祈り続けます。 そのヨブに神は怒涛の如く、優しい言葉ではなく厳しい言葉で一気に呼びかけるのです。 大地を示し、いかにヨブの存在が小さなもの、弱いものであるかを見つめさせ、「わたしに答えてみよ。」と迫るのでした。 神の答えは苦難の理由を告げることではなく、ヨブ自身が変えられることでした。 ヨブの状態は何ら変わらないのに、この苦しみに対するヨブの向き合い方が変えられていくのです。 ヨブが今まで求め続けていた苦難の理由の回答を得る必要がなくなるまでに変えられたのでした。 神との直接の出会いによって、ヨブは自分の頭や目や耳で分かっていたことが一部分であり、不完全であり、一時的なものであったこと、苦難の理由が分からなくとも自分の思いをはるかに越えた神のご計画があることを思い知らされたのでした。 神が沈黙の末に備え面と向かって出会ってくださったから、ヨブがありのままの姿を神のみ前に曝け出し祈りの格闘をしたから、ヨブは神に知られる者、その名を刻まれる者となったのです。 この世界を支え導いておられる「隠された神」に出会うことができる。 神に捉えられ、知られ、その名が神の国に刻まれていると喜ぶことができるようになる。 おぼろげにしか見えていないところから解放されて、「はっきりと知られているように、はっきり見ることになる。」とパウロは語るのです。