「思いを超えた神の恵み」 使徒言行録3章1~10節 (大久保教会石垣副牧師)
エルサレム神殿に入る門は三つあり、その一つは装飾が美しく、人々から「美しい門」と呼ばれた。 その門前には毎日、午後三時になると、生まれつき足の不自由な男が運ばれてきた。 この男が求めるのはいつも、行き交う人々からのわずかな金銭であった。
「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。」(3:3)
ペトロとヨハネ、この二人は思いがけず、この男によって、神殿に入ることを遮られてしまった。 男はわずかな金銭を求めたにすぎなかったが、「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。」(3:4)
「彼をじっと見て」、「わたしたちを見なさい」と、「見る」ことが二度繰り返されている。 この時の「見る」という言葉は、しっかりと見る、きちんと見るという言葉である。 彼らは互いに、しっかりと見つめ合うことになった。
この男の、長い物乞いの生活の中で、「じっと見られ」たり「見なさい」と言われたことがあったろうか。 男が見つめ、施しを期待して待っていると、二人は思いがけない言葉を彼に投げかけた。 「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
この男は、「いや、わたしは立てない。 できるわけないじゃないですか」と断ることもできたはずであったが、男はペトロが求めるままに従った。 ペトロが、男の右手を取って彼を立ち上がらせたとき、この男にとって全く別の人生が始まった。
これは、ペトロが働きかけたペトロの業ではない。 男が逆らわずに立ち上がったように、ペトロ自身も疑わず、神の命ずるままに、主の名を呼んだのである。 これは、復活の主がなせる働きであった。 そのとき、男の病んでいた足はいやされ、新しい命に生きる者とされた。 復活の主への信仰とその力、その希望をペトロが伝えた。 その男は、これを受け取るだけであったが、男の口からは賛美の言葉が生まれてきた。
「イエス・キリストのみ名によって」とは、直接的には「イエス・キリストの命令によって」という事である。 「イエス・キリストの命令」はいつも、聴く私たちにとって、実行不可能に思えることが多いのではないか。 わたしは、秋田教会の礼拝で、どのみ言葉を取り次がせていただこうかと祈り求めてきたが、その中で与えられたのが、使徒言行録3章の出来事であった。 「イエス・キリストのみ名によって」取り組んだ、この度の秋田教会の出来事が、皆様の思いを超えた恵みをもたらしたと伺ったとき、使徒言行録のこの出来事が、この秋田で起きたと、そのように導かれてきた。 これは、この出来事を知らされた、周囲のわたしたちにとって、大きな励ましとなっている。
教会と保育を取り巻く状況は、どこも厳しいものがある中にあっても、周囲の方々の目は、絶えずこの集いと働きに注がれてきた。 そこから、今、託された事業を、新しい思いで立ち上げるように導いたのは、やはり神であった。
秋田バプテスト教会と、ひかり幼稚園が「キリストの名によって立ち上がり、歩いた」ことは、復活の主への信仰とその力を得て、できたことであった。 これからの歩みが、一層、主の栄光を表すと信じる。
(3:6) 「ペトロは言った。 『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」