秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「み言葉をもって語られる神」 創世記15章1~21節

2023-05-07

 わずか4章しかないルツ記には、小さな家庭の中に起こされる様々な出来事、子どもの誕生、飢饉、移住、夫の死別、子どもの結婚、子どもの死別、人の出会いなどが記されています。  それがどのようなものであれ、神のみ言葉によって果たされていく現実を受け取っていく。 人間の知恵に溺れることなく神に委ね、目の前に起こる現実の意味を知らされるまで待つ。 これからどうなるのだろうと、未だつかみ取ることのできない現実を背負いながら歩むことの大切さを知らされるのです。 聖書箇所の冒頭に「これらの後で」とあります。 アブラムが戦いに大勝利して、多くの戦利品を手にし人々の賞賛の嵐の中でということです。 そうした中なぜか不安を抱くアブラムに、「主の言葉が幻の中で臨んだ」とあります。 「恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と呼びかけます。 アブラムは恐れる必要はないし、恐れてはならない。 主ご自身がアブラムを守る。 戦いの勝利は、アブラムの勇気や決断の結果でも、知恵や力によるものでもない。 主ご自身こそが、アブラムに対する報いであると語りかけるのです。 私たちは、主なる神を求めるより主なる神によって与えられる報いや恵みの内容にこだわってしまう。 主なる神は、ご自身に目を向けよと言われる。 しかし、アブラムは、「わたしに何をくださると言うのですか。 わたしには子供がありません。 今のままでは、家の使用人である者に家を継がせることになるのです。」と、しるしを神に訴えるのです。 神への不満でもあり、神の約束に対する疑いでもあるアブラムの心の破れです。 主なる神は、「そうではなく、あなたから生まれる者が後を継ぐ。 天を仰ぎなさい。 星を数えてみなさい。 あなたの子孫はこの星のようになる。」と言われるのです。 目に見える現実にしか目を向けていないアブラムの目を、「外に、天に」向けさせ、神が語られた約束を信じる信仰へとアブラムを導き出すのです。 万物の造り主がだれであるのか、子どものいない老夫婦に子どもを与えることもできるお方であることを、アブラムを覆っている「疑い、迷い、諦め」のひとつひとつを取り除いていこうとされるのです。 「わたしはあなたをここまで導き出した主である。」と、この世界を創り出した主であると同時に、あなた個人の生涯にも働く存在であることを宣言されたのです。 そして、奇妙な準備をするようにとアブラムに告げます。 契約の当事者が裂かれた動物の間を通り、その契約に違反した場合には切り裂かれてもよいと承認する当時の契約の手続きです。 ところが、17節に記されているように、「二つに切り裂かれた動物の間を、神ご自身だけが『煙を吐く炉と燃える松明』の姿を取って通り過ぎたのです。 契約の一方の当事者である主ご自身だけが、裂かれた動物の間を通り、自ら約束された契約の責任を一切負うと一方的に宣言されたのです。 主なる神は、その恵みを一方的に自らをかけて約束し、誓われるお方です。 私たちのいかなる契約違反をも問わず、赦して、自ら背負ってくださるのです。 神の祝福を疑い、不満を表明し、抗議するまでする神のみ言葉を離れたアブラム自身の姿を見つめ直す「試みの時」です。 私たちは勝手な自分のものさしに惑わされ、目に見える安心を求め不安を増幅させます。 神の備え、神の恵みの約束の言葉が常に、私たち人間の歩みに先立つのです。 神が先んじて歩まれ、準備して、私たちと共に歩んでくださるのです。 言い換えれば、神のみ言葉によって現実を、神ご自身に対する信頼によって受け取っていく恵みがすでに備えられているのです。 この神のみ言葉に委ね、自分を遥かに超えた神の大きな望みの内に生きていくことです。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元