秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「今も生きているキリストの生涯」 マルコによる福音書8章31~38節 

2023-04-30

 創世記4章には、最初の家族の誕生と言うべきアダムとエバの間に生まれた兄弟カインとアベルの間におきた出来事が記されています。 兄カインは家の土地を与る土を耕す農民となった。 弟アベルは家の周辺を任され羊を飼う者となった。 それぞれが忠実に働き、神に精いっぱいの献げ物をささげたと言います。 ところが、なぜか「主は弟アベルとその献げ物に目を留められたが、兄カインとその献げ物に目を留められなかった。 兄カインは激しく怒って顔を伏せた。」と言います。 「主なる神が目を留める」とはその人を祝福されるということです。「顔を伏せる」とは主なる神の前から立ち去る、隠れるということです。 神にもはや見放された。 その腹いせが神に向かわず、弟アベルに向かう。 神は、「どうして怒るのか。 どうして顔を伏せるのか。」と、家族と神と共に生きるために顔を上げるよう呼びかける。 主なる神は決してカインを見捨てておられないが、カインの目にはそうは映らない。 カインの心の中に湧いてくる闇の力がその目と心を曇らせて、自分のものさしだけで自分の不幸を嘆き、ついに弟アベルを襲って殺すという取り返しのつかない過ちを起こしてしまうのです。 そのカインに主なる神は、「何ということをしたのか。 お前はさすらう者となる。」と宣告するとともに、そのカインを守る「しるし」を付けられたと言うのです。 神はカインが犯した過ちを赦しておられるのではなく、過ちを犯したカインを赦し「しるし」を与えてご自身のもとへ招いておられるのです。 カインは「さすらう者」として、神に守られながら試みの中に置かれるのです。 そこから新たに造り変えられるために、神より「しるし」が与えられたと言うのです。 今の私たちに与えられている「イエス・キリストの十字架の死と復活」の出来事こそ、創世記の言う「しるし」なのではないかと思わされるのです。 イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねた時です。 ペトロは「あなたは、メシアです」と答えたと言います。 イエスは御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒め、十字架の苦しみと死、復活の出来事が自分の身に必ず起こるべきことになっていると語られたのはどうしてでしょうか。 ペトロの言うメシアとは、再びダビデの時代のように栄える王国を造るお方、「解放者としてのメシア」です。 神から遣わされたメシアをローマによって処刑させてはならないと、イエスをわきへお連れしていさめ始めたと言います。 人間の最善の振る舞いとしてイエスを人間に従わせようとしたペトロを、決して突き放すのではなく、イエスを諫めて自分に従わせようとしたペトロをご自身の後に従うようにと厳しい言葉をもって命じられたのです。 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とすべての弟子たちを招かれたのです。 「自分を捨てる」とは、イエスと共にあるという自分を受け入れなさい、イエスに委ねなさいということです。 「自分の十字架を背負う」とは、イエスでしか負うことのできない罪の赦しの十字架以外に、救いの約束の道はない。 それは、神が与えてくださらなければ手に入れることのできない新しい命です。 それを自分のためにではなく、神のために用いられなさい。 そうすれば、新しい命に生きることになると約束されたのです。 「わたしに従いなさい」とは、岐路に立たされた一瞬のことではない。 この世の真っ只中でイエスに従うことを最後まで貫き通しなさいということです。 聖霊が降って以降、「あなたは、メシアです」というペトロの信仰告白が整えられていったように、私たちもまたそれぞれにふさわしく成熟し、整えられていくのです。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元