「キリストを新しく着る」 マタイによる福音書12章43~45節
今朝の「汚れた霊が戻ってくる」という聖書箇所が、どうして宣教題「キリストを新しく着る」に結びつくのかと不思議に思われた方も多いのではないでしょうか。 イエスが語られたこの短いみ言葉は、「しるしを見せてください」と迫った「律法学者とファリサイ派の人々」に向けて語られたみ言葉です。 彼らは、自分たちこそ神の救いにあずかるに最もふさわしい者であると自負していた人々です。 神の子である「しるし」など示せるはずがないと、イエスを訴える口実を得ようと迫った人々です。 イエスは、彼らの求める「しるし」を拒んだのではなく、彼らの心の中にあるものを拒まれたのです。 その思いが、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる。 預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」というみ言葉になったのです。 「預言者ヨナのしるし」とは、神の命令に背いたヨナが悔い改めて、そのことを告白して海に放り出されたけれども、三日三晩巨大な魚の腹の中にいて災難を免れた。 再び神の招きが臨んだヨナが、もう一度神の命じられたところに遣わされて、人々に神の警告を語るのです。 人々は単なる聴衆としてではなく、そのヨナを通して語られた神のみ言葉を受け入れて神のもとに立ち帰ったのでした。 「しるし」という目に見えるものを求めるのではなく、神のみ言葉を受け入れ神ご自身に触れる情熱に至る信仰を、イエスは「律法学者とファリサイ派の人々」に求められたのです。 イエス・キリストご自身である肉となった神のみ言葉の他に、この世で「しるし」を求めてはならないとイエスは訴えておられるのです。 「汚れた霊」は一度は出て行くけれども、また戻ってくると言います。 戻ってみると居心地が良いので、前いた時よりも悪いほかの霊をいっぱい引き連れて住み着くと言うのです。 様々な人生経験を経るたびに自分自身が積み上げてきたものに誇りをもってしまったのかもしれない。 様々な病気や貧しさや苦難によって「汚れた霊」がその弱さにつけ込んできたのかもしれません。 それらの弱さこそ、「神の業が現れ出るためである」とイエスは断言します。 そのために神の武具、「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる履物、信仰の盾、救いの兜・・・・」を身につけなさいと聖書は言います。 それらはすべて防御用の武具ばかりです。 それほどまでに「汚れた霊」との戦いは困難なものです。 聖書が身につけなさいと語る唯一の攻撃用の武器とは、「霊の剣、神のみ言葉」だけです。 私たちの悔い改めが一時点だけのものとなってはならない。 新しく従って行こうとするその決断が瞬間のものになってはならないのです。 そのための主イエスの十字架の死と復活が、「最後のしるし」として呼びかけられたのです。 パウロはこのことを自身の体験から、「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。 滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てなさい。 心の底から新たにされなさい。」と言うのです。 問題は、その次が大切である。 「神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい。」(エフェソ4:24)とパウロは言うのです。 「キリストを着る」とまでパウロは表現しています。 「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。 あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つです。」と言います。 真理として見える姿となってくださったイエス・キリスト、神のみ言葉そのものとして呼びかけてくださったイエス・キリストを身につけるまでに内に宿す、従ってみるということです。