「復活の主、キリストの愛」 ローマの信徒への手紙 8章31~39節
マルコによる福音書は、復活したイエスの姿自体を一切描いていません。 それどころか、イエスが復活したという事実そのものがだれにも告げられないままに、唐突に終わっているのです。 週の初めの日朝早く、3人の婦人たちが死者の装いを整えるために、悲しみを憶えながらイエスの遺体を求めて墓に出かけてきたと言います。 ところが、婦人たちは思い描いていた光景とはまるで違う驚きの出来事を目の当たりにします。 自分たちの力では動かしがたいと心配していた墓の石がわきへ転がしてあった。 墓の中にいた人物が、「驚くことはない。 あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。 さあ行って、弟子たちとペトロにこのことを告げなさい。 あの方は予て『復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く』と言われていたとおり、そこでお目にかかれる。 あなたがたは、イエスの遺体をお納めしていた墓の中をよく御覧なさい。」と言うのです。 余りの突然の出来事により、婦人たちは「震え上がり、正気を失った。 余りの恐ろしさに、墓を出て逃げ去った。」と言います。 それほど、イエスの復活は弟子たちにとって衝撃的な出来事であったのです。 この事実を突きつけられた婦人たちは、イエスのもとを離れてしまっていた弟子たちと全く同じように、逃げ去るように復活の主イエスのもとを離れ去ったのでした。 この十字架に架けられ死んだイエスが「復活」という新しい道を歩み始めた出来事こそ、「私たちと全く同じ死ぬべきからだを背負わされて、この世の誘惑も受けるしこの世を恐れることも悲しむことも知らされて、神との交わりを制限されたイエスご自身の、人間としてこの世を歩み通した愛の業である。」と語るパウロは、自らの体験の中でこの「復活」の新しい生き方を味わったのでした。 そのパウロが、「だれが、わたしたちに敵対できますか。 だれが、神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょう。 だれが、わたしたちを罪に定めることができましょう。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と訴えます。 「神が選んだのであるなら、神が味方であるなら、人を正しく裁くことができるのは神なのであるから」とその理由を述べています。 その理由の中に、「わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」 「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる。」という言葉を付け加えるのです。 私たちすべての過ちを背負って、神の裁きを替わって受けて贖ってくださった。 復活という生き方、新しい道を切り開いて、自らその道を歩んでくださった。 そこに留まることなく、「復活されたイエスが父なる神のもとで、すべての権威と力を与えられて、私たちすべてのために聖霊を注ぎ出し、励まし、慰め、執り成し続けてくださっている」とパウロは言うのです。 逃げ去った弟子たちも、一言も復活の事実を告げ知らせなかった婦人たちも、確信をもってイエスに敵対していた昔のパウロ自身のためにも、「復活」はすべての人のために一貫して働いてくださるイエス・キリストのご愛と痛みの業であると言うのです。 イエスは神の子であるから、このような道を歩むことができたのではありません。 過ちだらけのこの世においても、イエスは祈りを通して神との交わりが途絶えなかった、み言葉に聴き神のみ心に忠実であったから、神のご愛が注がれてイエスの身に現れ出たのです。 このキリストに現れ出た神の愛は、キリストに結ばれて生きる者には必ず現れ出るのです。