「宣べ伝えられねばならない福音」 マルコによる福音書13章1~13節
ひとりの弟子の発言が、思いがけない主イエスの教えを引き出しました。 イエスが「エルサレム神殿の境内を出て行かれるとき」、その神殿を眺めていたひとりの弟子が、「なんとすばらしい石、建物でしょう。」と叫んだのです。 ヘロデ王が46年もかけて修築した大理石に輝く華麗な神殿で、ガリラヤ出身の弟子たちが圧倒されるのはごく自然なことでしょう。 その弟子の言葉にイエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。 この神殿は跡形もなく崩壊する。」と衝撃的な言葉を発するのです。 この時もうすでにイエスは、神殿が両替人や鳩を売る人たちの商売の場と成り下がって、すでに崩壊していると見て取られたのです。 このことに留まらずイエスは次々と、「祭司長、律法学者、長老たち」と、この世の権威について、皇帝への税金について、復活やメシアについて様々な論争を繰り返し鋭い批判を繰り返されたのです。 ただならぬイエスの形相に、言葉にならない緊張をもったペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人が、イエスが「エルサレム神殿の方を向いて座っておられるとき、ひそかに尋ねた」と言います。 「エルサレム神殿が崩壊してしまう」というこの世の終わりとでも思える恐ろしい出来事は、「いったいいつ起こるのですか。 どのような徴があるのですか。」 この問いにイエスは答えることなく、5節「人に惑わされないように気をつけなさい」、9節「自分のことに気をつけていなさい。」、37節「目を覚ましていなさい。」と語られたのでした。 イエスは、弟子たちが「終末の徴」と思っているものをひとつひとつ示します。 「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人を惑わすだろう。」 自称メシア、偽メシアといった人たちのことで、ローマ支配から独立しなければならないと武力に訴えるのです。 戦争の騒ぎや戦争のうわさ、民は民に、国は国に敵対して立ち上がること、「そういうことは起こるに決まっている」と言うのです。 「方々に地震が起こり、飢饉が起こる。」 これらの社会的な災害に加えて更に、弟子たちがこれから受けなければならない個人的な苦難をも語るのです。 「地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。」 ユダヤ教の迫害に対する苦難です。 「イエスご自身のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」 ローマの権力に対する苦難です。 「わたしの名のために、すべての人に拒まれる。」と言うのです。 更に、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。」 イエスはこう列挙したうえで、「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。 最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 これらは産みの苦しみの始まりである。」と言われるのです。 それらのことは終わりの日そのものではない。 終わりの始まりである、新しい命の誕生であると言われるのです。 そのために、主ご自身がこの世に遣わされてきた。 受難を引き受けようとエルサレムにまで足を運んできた。 それらの出来事がどのようなものであれ、「まず福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」 ご自身の中に秘められた奥義、これから担われる十字架の受難と復活の事実、神の揺るぎない約束が世界を覆わなければならない。 だから、忌まわしい現実に立ち向かうことができる。 この世の一切の出来事は、神の支配のもとにあるからこそ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」という約束を信じることができる。 造られた者は造り主の前に立ち、主ご自身に結ばれた生き方に整えられ、主イエスとともに天の王座に着く時がくる。 だから、「気をつけなさい。 眼を覚ましていなさい。」と言われるのです。 終末に結び付けて、今与えられているその時、その場所を軽んじ、見えるものだけを見つめ、神を見つめようとしないことを戒めておられるのではないでしょうか。 このみ言葉こそ、今、語られねばならないみ言葉です。