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「すべての人が招かれる食卓」 マルコによる福音書8章1~10節

2023-01-22

 「五千人に食べ物を与える」という奇跡と「四千人に食べ物を与える」という奇跡が、マルコによる福音書には記されています。 二つの出来事は、群衆の数も、差し出された食べ物も「五つのパンと二匹の魚」、「七つのパンと少しの魚」と違います。 かき集められた食べた残りが「12の籠に一杯になった、7つの籠に一杯になった」と違います。 この二つの奇跡の出来事には、イエスの癒しの業が先行していることが分かります。 様々な体の不自由な人たちこそ、体が不自由であるそのことだけで人々との交わりを拒まれた人たちです。 「五千人」の出来事は、ガリラヤ宣教を行なっているときのことです。 イエスと弟子たちを追いかけて一斉に駆けつけてくる大勢の群衆を見て、イエスは「『飼い主のいない羊』のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と言います。 イエスを通してなされる神の最後の呼びかけを、イスラエルの人たちが聞かず、そのイエスを殺そうとまでしていることに対するイエスの深い嘆きです。 神の民であるはずのイスラエルの民が、神の祝福に与っていない有様をイエスは深く憐れまれたのです。 「四千人」の出来事の冒頭に「そのころ」とあります。 ガリラヤとは反対側、ガリラヤ湖の東側、異邦人の地でイエスたちが巡り歩いていたころです。 そのイエスが、四千人の異邦人に向けても、イスラエルの人々と同じ憐れみをもって接するのです。 イエスは、「群衆がかわいそうだ。 もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 中には遠くから来ている者がいる。 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。」と、群集が家路につくことを心配されるのです。 ここは、「人里離れたところ」、食べ物を買いに行くことさえできないところです。 三日間、イエスが語る神のみ言葉に満たされた世界から再び現実の世界に帰って行く、イエスのもとから遣わされていく群衆の帰り道をイエスは心配しておられるのです。 「こんな人里離れた所で、これだけの人に食べさせることができるでしょうか。」と呟く弟子たちに、「飼い主のいない羊」のような群衆を養うのが弟子たちの務めである。 ご自身の群衆に対する深い憐れみを共有してほしいと弟子たちに願うのです。 弟子たちが差し出した七つのパンを取り、感謝と賛美の祈りを唱えてこれを裂き、群衆に配るようにと弟子たちにお渡しになった。 イエスの思いが込められたパンを、弟子たちは人々に配った。 人々は満腹した。 残ったパンを集めると、七つの籠になったと言います。 マルコは「7」というイスラエルの完全数を用いて、イスラエルだけではない異邦人の世界にも、すべての世界がイエスから渡された恵みに満たされたと語っているのです。 イエスの前に差し出されたものは、「七つのパンと少しの魚」です。 残されていた最後の食べ物、ささやかなものです。 これから家路につき現実の世界に遣わされていく群衆を心配して、これらのわずかなものを祝福し、霊肉ともに神の恵みに満たされ遣わされていくようにと、イエスは群集を「解散させられる」のです。 弟子たちに渡されたパンと魚こそ、イエスご自身の十字架により「裂かれた肉体」と「流された血」を弟子たち、群衆にお委ねになったのです。 イスラエルの人たち、異邦人たち、社会から取り残された人たち、すべての人たちに神の恵みの世界は訪れた。 イエスはご自身の十字架の上で、ご自身の食卓をご用意されたのです。 私たちもこの群衆のひとりです。 神の前に立つことを、イエス・キリストの肉体と血によって赦された者です。 本来、神の前に立つことのできない者です。 私たちが差し出すわずかなものを、喜んで受け取って、執り成しの祈りをささげて祝福してくださるのです。 すべての人が、イエスの食卓に招かれているという恵みに与っていることを忘れてはならないのです。



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