「旅する教会」 民数記9章15~23節
民数記は、神の導きによりイスラエルの民がエジプトから救い出された後、40年もの間、荒れ野をさまよった記録です。 一つには、イスラエルの民のエジプトの苦役からの解放の後、嘆きと呟きが絶えなかった不信仰による荒れ野の試練でした。 二つ目には、その民の不信仰にも関わらず、神がご自身の立てられた約束を果たす為に、たとえ長きに亘る時を用いてでも約束の地に導き、忍耐と恵みをもって約束に忠実にそのご真実を貫かれた記録でした。 三つ目には、このエジプトから導き出された数え切れないぐらいの大群衆と家畜を率いた指導者モーセの働きと、神とモーセとの交わりも記されています。 今朝の箇所は、イスラエルの民が一斉に神の導きによりエジプトから救い出されたその翌年のことです。
シナイの荒れ野に到着しそこで幕屋を建設し留まった。 そのシナイの荒れ野で、神はモーセに「定められた時に過越祭を祝わねばならない」と命令したと言います。 エジプトから脱出する際に起こされた「神の過越しの出来事」です。 イスラエルの人々を救い出すために、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つという神の裁きがエジプトを覆った。 イスラエルの人々は家ごとに傷のない小羊一匹を屠り、その血を家の入口2本の柱と鴨居に塗った。 家の入り口に塗られた小羊の「いけにえの血」によって、神の災いはその家を過越して及ばなかった。 それによってイスラエルの民はエジプトから脱出することができた。 その記念すべき救いの日を忘れることのないようにという神のご命令でした。 新約聖書の時代に生きる私たちにとっては、主イエス・キリストの十字架という「裂かれたからだと流された血」の犠牲のゆえに私たちの罪が赦されたことを思い出すために、「主の晩餐」を執り行うようにとイエスご自身がお命じになったことと同じです。 エジプトの地を脱したその翌年に、最初の過越しの祭りがシナイの荒れ野で執り行われたのでした。
「人々が建てた幕屋を雲が覆った。 夕方になると、その雲は幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。」と言います。 「雲」とは、主なる神がともにおられるという「しるし、証し」です。 幕屋を「雲」が覆い、主の栄光がそこに満ちたと言います。 その「雲」が幕屋を離れて天に昇ると、人々は出発した。 「雲」が幕屋を離れず天に昇らずそのまま留まると、人々はそこに宿営した。 神がイスラエルの民に先立って導き、人々と共に進み、そして留まったと言います。 この教会の群れの原形は、神の存在によって導かれ旅を続けた群れでした。 神の命令であった「過越しの祭り」を執り行うことを、荒れ野のさすらいの旅の間中守ったということです。 エジプトで死ぬべき存在であった自分たちが、「小羊のいけにえ」により生かされたという神の恵み、救いの業を礼拝によって決して忘れることがなかった。 誰でも見ることができた「雲の柱」だけでなく、指導者モーセを通して語られた神のみ言葉を聞いて人々がそれに従ったということです。 単に荒れ野を「さすらう、さまよう人々」ではなく、旅の目的地、神の約束の地を見据えて旅立ち、宿営したということです。 新約聖書の時代に生きる私たちには、恵みとして「雲」に替わって「聖霊」という復活の主イエス・キリストが働いてくださっています。 目に見える確かな道しるべが与えられていたにも関わらず、不平や不満や呟きの絶えなかったイスラエルの人々と同じ私たちです。 しかし、賜物として与えられている「聖霊」を心の内に受け入れ、味わいなさいと主は言われる。 不承不承モーセを通して語られたみ言葉に従ったイスラエルの人々と同じように、聖霊を通して与えられるみ言葉に弱き者、欠ける者として従ってみることです。 本当の飢えや渇きを満たすことのできるお方は、イエス・キリストだけです。