「第二の天地創造」 マルコによる福音書1章1~11節
マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と、創世記の「初めに、神は天地を創造された。」という書き出しを意識して、新しい時が訪れたと書き始めています。 預言者が「死者を遣わして、道を備える。 整える。」と預言していた通り、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れた。」 いよいよ天地創造という大事業に匹敵する驚くべき神の救いの業が新しく始まろうとしていることが、短い「神の子イエス・キリストの福音の初め」という聖句に込められているのです。 その重要人物である洗礼者ヨハネは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と言います。 当時の遊牧民の姿、荒々しい野人のような姿で「荒れ野」に現れたと言います。 エルサレムの都の人々は長い衣を着て、戒めを守る清潔な生活を送っていたと言いますから、その姿とは程遠い姿です。 「荒れ野」とは、不毛なところ、見捨てられ、誰も顧みない所ということでしょう。 そこに「洗礼者ヨハネが、バプテスマを施す者、バプテスマを宣べ伝える者として、施す相手も宣べ伝える相手もいないようなところに現れた」とマルコは言うのです。 ヨハネはなぜ、そのような「荒れ野」で生き、預言者としての務めを果たそうとしたのでしょうか。 分かっていることは、人々が見向きもしない不毛の地、辺境の地に生きる生き方を自ら選び取っていることです。 エルサレムの都に住んで、神殿に仕え戒めを守ることだけに終始する人々とは異なる生き方を自ら選び取っていることです。 そしてヨハネと同じように、神殿の中では見えてこない、都では味わえない世界に生きていこうとする人々を、だれもいない「荒れ野」で待ち続けていたということです。 この「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていた」ヨハネの姿こそ、一国の王に対し怯むことなく神のみ言葉を語ることを貫き通した旧約聖書の預言者エリヤの姿です。 人々は、このヨハネの姿を預言者エリアの姿に重ね合わせていたのかもしれません。 「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた」と言うのです。 マルコはこのことを、「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」と表現します。 普通なら「バプテスマを施した、授けた」となるところを、「バプテスマを宣べ伝えた」と言うのです。 ヨハネが努力をして人々を集めたのでも、説得したのでもない。 神が、見向きもされなかった「荒れ野」に人々を呼び集め、その過ちに気づかせ、ヨハネのもとに来てありのままを告白させ、新しい歩みをしたいと願って訪れたすべての民に、ヨハネを通して「罪の赦し」があることをバプテスマを通して宣べ伝えさせた。 神の裁きの前に赦される「イエス・キリストの福音」が今、訪れようとしていることをヨハネが宣べ伝えたとマルコは語るのです。 「わたしより優れた方が、後から来られる。 わたしは水でバプテスマを授けたが、そのお方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」とヨハネが語ったその直後、「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でそのヨハネからバプテスマを受けられた。」とだけ語るのです。 すると、「天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降ってくるのをご覧になった。 あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者と言う声が、天から聞えた。」 イエスが「荒れ野」に出向いてくださって、数々の罪を悔いてヨハネからバプテスマを受けている群れに加わってくださった。 すると、わたしの愛する子と言う神の宣言が聖霊によって降ったと、バプテスマの意味を宣べ伝えたのです。 新しく聖霊によって生まれた神の子の誕生の出来事を、短く語っているのではないでしょうか。 イエスの水によるバプテスマが、救い主イエス・キリストの名による聖霊によるバプテスマへと変えられた瞬間ではないでしょうか。